【2021/9/29】苦肉の日
あぁ今日は肉の日なのに、スーパーに行って肉を買わなかった。なんたる失態。しかし肉を買うよりも大事なことがあった。家で引きこもって行う大事な作業。それは書くこと。
基本的に「書く」ことは日本人の場合、ほとんどの人が出来る。今やSNSだのブログだの、書きたいと思えばいつでもどこでも書けるし、それを発信することもできる。かつての日記や作文のように紙に認めることだってできる。
誰でもできる。できるのに。
こと脚本や物語を書くとなると、みんな「すごいですね」「自分はできない」「よく書けるね」と誉めそやす。
確かに簡単には書けない。時間もかかる。すべて思い通りに書けたことなんて一度もない。
でもね。
書けるんですよ、本当は。そこのあなたも、これ読んでるあなたも、誰にでも。
上手か下手かはさておきですよ。
これではただの面倒くさいやつと思われているだろうし、だからみんなも書けよ!書こうよ!と言いたいわけでは全くなくて、むしろ書かないで下さいと思っているくらいで。
で、結局。何が言いたいかと言うと、書けるのがスゴイと言うことではないということで。
なんだかただの偏屈みたいになっているけれど、脚本や物語をつくるというのは、書くことじゃないということ。
本当は、向き合うということだと知ってほしい。
自分の作品に対してウソをつかないこと。敢えてそう表現する必要がある場合を除いて。
全部に理由付けをして、全部に裏を取って、全部に迷いがない状態にするまで、ずっとずっと向き合い続けないといけない。それは自分が生み出した作品に対する責任があるから。
物語を書くということは、自分が神様である。
天地創造と同じく、その世界は自分の好きなように人も動物もモノも、本当は存在しないものでさえも、つくり出すことが出来る。誰かを死なせることも、産み落とすことも、傷つけることも、幸せにも不幸にも、自分好みのイケメンを出現させることも、なんだってできる。
我は創造神である。
だから、向き合う。登場人物のひとりひとりに、その行動ひとつひとつに。
でも実際のところ、人は無意識で行動したり、何も考えずに発言したりするし、どんなに素敵な経験や出会いだって覚えていないこともあるし、マジで理解できない人はたくさんいる。
だから実生活では「まぁこういう人なんですよ」って片づけることもできるけれど、自分の物語はそうはいかない。何も考えていない理由がいるし、それに伴う行動がいるし、人物そのものの設定を確実に作らないといけない。正直、すごく時間がかかる。
向き合って、向き合って、向き合って。
もうウソはないよ、全員の説明できるよ、かかってきなさいよってところまで持って行って。
だから、書けるのがすごいんじゃない。
向き合えるのがすごいと褒めてくれ。
本当は誰にでもできることを、たくさんの時間と労力と、執着と気持ち悪さを携えてやってるだけなんだよ。
そして、それが好きなんだよ。
あぁ苦肉。