スマホが壊れただけなのに
スマホが壊れた。しかも登山中に。
昨年末から登山にハマったのだが、登っている最中に写真を撮ったり、進路を検索したりと、スマホは必需品であると実感している。
最初のうちは、突然電源が切れたり、バッテリーの残表示が50%くらいでも落ちたりしていた。それでも、充電すれば電源は入ったので、常にモバイルバッテリーを持ち歩いて凌いでいた。
突然のシャットダウンで、シャッターチャンスを逃した回数は数知れず。だが、本来登山は写真を撮ることが一番の目的ではないし、写真ばかり撮っていたら前に進まないので、ある程度割り切っていた。
が、先日の登山中、ついにご臨終になられた。
充電しても電源が入らない。ウンともスンとも言わないのだ。
その時は仲間と登っていたので、写真は誰かが撮ってくれるし、道案内もしてくれたので全く問題がなかった。心の奥底では、「あぁ、今撮りたいなぁ」とか「撮ってもらいたいなぁ」とか思っていたけど、それも諦めがつくレベルの気持ちである。スマホが壊れても、不自由は感じなかった。
山から下りて、一旦家に帰り、そのメンバーで飲み会をすることになった。相変わらず私のスマホちゃんは眠ったまま。持って行っても仕方がないので、家に置いて出掛けた。ふと思った。
スマホを置いて出掛けたことなんて、いつぶりだろう。
仲間と合流し、飲み会がスタート。普段であれば、おつかれのビールや食べたものなど写真に収め、ツイートでもするところであろうが、それはできない。メールやLINEが来ていても確認できない。できないと分かっていれば、食事に集中し、会話を楽しむ。誰かのお酒がなかったり、会話に参加していないメンバーがいたりすることにもすぐに気付く。飲み会における当然の動きへの初動が遅くなっていたのだと分かった。帰り道に思った。
かつてはこれ(スマホを見ないこと)が普通だったのにな。
家に帰った後、最低限の連絡をパソコンですれば、もう特にすることはない。SNSの反応をチェックしたり、ただただネットニュースを流し読みしたりする必要もない。疲れた身体を休めるために、早々にベッドに入ると、あっという間に眠りに落ちた。スマホを見ていたら、おそらく1時間は眠れなかっただろう。
暇さえあれば(むしろなくても)スマホを眺め、何かを発信し、誰かの発信をチェックし、ゲームしたり動画を見たり、する。その行動に囚われている自分がいて、ちょっとだけ後ろめたさを感じながら、それでもルーティーンかクセのようにスマホを触ってしまっている。スマホを使って何かをすることは決して悪いことではない。そんなにスマホ依存してないよという方も、仕事上絶対見ないといけないのだと言う方も、たくさんいるだろう。言いたいことはいいとか悪いではない。
スマホが壊れて初めて、そういう思いになれたり、気付けたりしたことが良かったと、言いたいだけである。どんな状況であっても、目の前にいる人を一番目に扱える人間でありたいと思ったし、誰かといるときにスマホを触っていた自分を反省した。ひとりでいるときはまだしも、誰かと過ごす大切な時間はスマホをバックの奥底にしまっていようと誓った。そう、スマホが壊れただけなのに。
【翌日談】ネットで調べたところ、SDカード近くに再起動ボタンがあると知り、押してみたら電源が付いた。どちらにしても私のスマホは後先短そうなので近々機種変更する予定である。
登山の記録はYAMAPのアプリを使用中。
記録途中で途切れちゃったけど。