わたしにとって走ることは
走るのが日課で、フルマラソンも何度も走ってて、サブ4とかサブ3とか当たり前で、ランニングに関する知識も豊富で、ランニング仲間もたくさんいるランナーさんがいる。
すごいなぁって。
当たり前だけどお仕事もしてるし、家族がいたり、付き合いがあったりするのに、ランニング以外にも趣味があって、身体は引き締まっていて、ふくらはぎは発達していて、っていうランナーさんがたくさんいる。
まじ尊敬するわって。
わたしが自発的に走り出したのは、「仕事」だったから。だから自発的でも何でもないのかもしれないが、仕事以外でも走るようになったのは、仕事がキッカケ。ややこしいけど。
お仕事で走る以上は、恥ずかしくない走りをしよう、とか、大会に出るときは、完走はもちろん、いいタイムで走りたいと、そう思って練習していた。練習すれば前よりも速くなるし、身体も慣れてくる。走れば走るだけ何かの成果が得られる。これは間違いない(もっと上級者の方は次元が違うかもしれないけれど)。
だけどどんなに練習しても、走るのは「キツイ」。これだけは変わらない。どんなに短い距離でも、コンディションが良くても、楽だなぁと思ったことは一度もない。ただ「キツイけど気持ちいい」「キツイのに楽しい」とかはあった。ランニングハイとかゾーンと呼ばれる状態だったのかもしれない。
数年前、走るお仕事がなくなってからも、頻度は多くないけど走っていた。年に一度はハーフの大会に出ていたし、友達とランニングもしていた。巡業で各地を訪れた際は、公演会場付近を朝や夜に走ったこともある。
なんで走っていたんだろう。
走ることはキツいし、たまに走るくらいじゃ速くもならないし、大会に出る予定だってなかった。だから気付いたら半年以上のブランクが出来ていた。年始に出たハーフマラソン以来。今日の今日まで走ることから逃げていた。コロナとかいろいろあったにせよ、それとは違う理由だ。でもそんな私が再び走ると決めた理由はただひとつ。
走ると、モヤモヤを払拭できるから。
心や体の中にある、気付かないうちに蓄積されていくモヤモヤやシコリや膿みたいなものが、走ると減っていく。考えが煮詰まっている時は答えが出たりする。嫌々走り出したはずが、帰ってくる頃には爛々していたこともある。身体は疲れているがアドレナリンが出まくって、なかなか寝付けないことも多い。科学的根拠があるかは知らないが、私の場合はそうだった。
走ることで、たくさん救われてきた。
脚本のアイデアに詰まったとき、走りながらしっくりくる展開が浮かんだ。自らの浮かんだセリフで泣きながら走ったことがある。
進むべきかとどまるべきか悩んでいたとき、走りながら、突き進もうと決意を固めたこともある。
走ることは、占いみたいなもの。
自分が迷っている時に、本当にやりたい選択の後押しをしてくれる。疲労と荒い呼吸ともに余計なものが削ぎ落されて行って、シンプルに考えられるからかもしれない。
大人になってからの人生の節目には走ることが寄り添ってくれていた。
走ることが、伴走してくれていた。
って意味分からないけど。
だから走ろうって。意味分からないけど、走ったら何か見つかるかもしれない。これまでもそうやって見つけてきた。走り出すまでは本当に長いけど、長けりゃ長い分、なにかがたくさん出て来るだろう。今出しておいた方がいいものが。アイデアなのか、廃棄物なのか、脂肪なのか、分からない。きっと在宅ワークやクーラー生活の中で、たんまり溜まってるよ。
あ、あと走り出した理由はもうひとつあって、
汗をかきたかった。
寝汗以外の、運動による汗をかきたかった。このままでは汗腺が閉じてしまうと危機感を覚えていた。本当はそれが一番の理由かも。