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ルシャナの仏国土 心願成就編 6-10


六.シャンメイ・リン

 陽壮帝は、内々に『シャンメイ・リン』という環境設計家について、もしも何か心当たりがあれば、どのような些細なことでもすぐに知らせるようにとの通達を出した。
 すると、前の科学技術庁長官・王石家が彼に謁見して、シャンメイ出国当時の経緯を話してくれた。それによれば・・・。
 シャンメイの元々の名は令香梅。アルリニアの孤児院の前に捨てられていたところを保護されて間もなく、オルニア大陸で著名だった環境設計家・ヴィクトル・ベッカーに引き取られ、その後十五歳の時に帰国し、養子縁組もされる。しかし当時は、自然を生かしながら人々の生活を営ませるという考えが社会に全く受け入れられず、彼女は失望して国外に去った・・・とのことである。

「それでは、特に国外追放ということではなかったのだな?」
 陽壮帝には、それが最も気がかりな点であった。もしも何かの罪で追放にでもなっていたのなら、採用することは難しくなるからだ。
「は。その者にはこれといった汚点はございませんでした。ただ、先帝陛下におかせられましては、我が国には特にそのような学問は必要なく、さらに国外から余計な思想は入れるべきではないと仰せられました。また、私共も同意見でありましたので、オルニア大陸の様子だけを聞き出して、その者には泰安市の職員の養女となるように勧めました。」
「泰安といえば、一地方の小さな港町ではないか。」
「おそらく先帝陛下におかせられましては、その者がもしも間者かんじゃだったらとお考えになったのではないかと思われます。」
「そうであったか。それならば、その者がこの国に環境設計学とやらを広めることを諦めても無理もないな。」
「皇帝陛下、もしやその者をお探しなのは、その環境設計学をお求めなので?それに、一体どこからその名を?」
 皇帝は石家を静かに見据えた。
「そなたも、ライランカに足を踏み入れた複数の目撃者たちの話を耳にしておろう。精霊たちは実在しているのだ。そして、余自らもこの身を以て精霊獣と対話した。」
「なんと!」
「精霊獣は言った。他の者の為に生きることが喜びになるのだと。・・・余は、貧しき者たちや、自然災害で住まいを追われた者たちのためになることを為した。それこそが『菩薩舎』だ。
 そのひとつに慰問した帰り道で、余は如何にしたら自然災害が無くなるものかと思案しておった。その時に美しい蓮の花が現れ、声が聞こえたのだ。シャンメイ・リン・・・。余は初め何のことか分からなかったが、どうも人の名のように思えてな。どうやらその予想は正しかったようだ。」

 シャンメイの居所を突き止めたのは、奇しくも彼女が留まるようにと勧められた泰安市にある港湾管理部である。何気なく入港船の船員名簿を確認していた一職員が、彼女の名を見つけたのだ。その知らせは、直ぐさま陽壮帝に伝えられ、皇帝は取るものも取りあえず駆けつけた。
「ウユニの公船か・・・。」
「は。そのシャンメイという者は、副船長のようです。やはり御自らお会いになりますか?」
「うむ。何とか話がしたい。船長と共に、港湾管理部に来てくれるよう頼んでくれ。」

 陽壮帝が、その二人と会ったのはそれから一時間後だ。二人が外見上普通であったことに、彼は少しの安堵感を感じざるを得なかった。
「余はアルリニア皇帝・陽壮帝である。わざわざ呼び立てて済まぬな。シャンメイ殿、貴女が母国を出られた経緯は、当時の官僚から聴いた。当時は、さぞかし失望されたことであろう。今更我が国のために働いてくれなどと言えた義理はないかも知れぬ。
 しかし余は、是非とも貴女の持つ環境設計学を活かして欲しいと思っているのだ。近年増えている自然災害を収め、人々の生命と生活を守って欲しい。
 貴女のことは、全権参与として迎える用意がある。これまで務めてきた副船長としての役割を果たさなければならぬことも理解するが、母国で本来の環境設計家になる気はないか。心からお願いする。」
 陽壮帝は、深く頭を下げた。シャンメイが発言する前に、マグダレナが皮肉った。
「へーぇ。まだ十五の子娘を追い出しといて、今頃来てくれって訳?ずいぶん虫が良い話だねぇ。シャンメイはねぇ、うちの船の大切な副船長なんだ。そう簡単に右へ左へと行かせる訳にはいかないねぇ。」
「なんだと!皇帝陛下直々に頭を下げられておるのだぞ!無礼な!」
「おやおや。やる気かい?」
 警護官が剣に手を掛け、マグダレナも身構えた。陽壮帝とシャンメイが、それぞれを押し止める。
「まぁ待て。確かにマグダレナ殿のほうに分がある。余からは返す言葉がない。我が国は、かつてシャンメイ殿を見捨てたのだ。
 しかし、シャンメイ殿。決して国家のためではなく、人々を救うために、環境設計学を用いて、大鉈を振るっていただきたいのだ。」
 シャンメイは、皇帝を見つめた。
「ご意向は承りました。しかし今ここでの即答は致しかねます。私はウユニの公船の乗組員。私の進退はウユニの皇帝陛下の管理下にございます。一度、ウユニまで往復して来なければなりません。三ヶ月ほどお待ち下さいますか?
 また 私には、他国にきょうだい達がおります。ベッカーの父は、世界七大陸から一人ずつ子供を集めて家族としたのです。陛下におかれましては、どうかそのこともご承知おき下さいますよう。」
 陽壮帝もまた、シャンメイを見つめた。静まり返った湖面のような瞳だ。その水の底深くには、きっと美しき宝玉が眠っているに違いない。
「そうか。そのようなことがおありか。しかし、余は我が国が一国のみで成り立つとも、世界を我が国一国としようなどとも考えてはおらぬ。
 貴女の思うがままにされるが良い。だが、自然災害は人を待ってはくれぬ。そのことは心に留め置いて欲しい。それに、余が貴女の名を知ったのは、覚者ルシャナ様のお導きかもしれぬのだ。・・・」
 陽壮帝は、王石家にしたのと同じ内容を二人に話した。シャンメイはそれを真剣に聞いていた。マグダレナも、つい先日ライランカで惑星規模の不可解な出来事を目の当たりにしたばかりで、人知を超えた者たちが実在していることは理解している。
「蓮の花は、覚者ルシャナ様とゆかり深き花・・・。使いに寄こされたとしても不思議ではありませんね。」
 シャンメイは言った。

 ルナ・ブランカ号は予定通り出航した。アルリニアから少し離れた波の穏やかな海域に来ると、マグダレナは舵を新人航海士のハンナに任せて、シャンメイを船長室に伴って話しかけた。
「シャンメイ、あの話、受ける気かい?」
「はい。あの皇帝陛下のご年齢から考えると、とても私のことをたまたま小耳に挟まれたのみとは思われません。あの国では、都合の悪いことは徹底的に伏せられる傾向にあります。少なくとも私が出国した頃まではそうでした。これまでも幾度となく立ち寄りましたが、誰も私の名を聞いて反応する人はいなかった。おそらく私はどこかの行方不明者名簿にしか載っていなかったのでしょう。そんな私を皇帝陛下はお探しになった。人知を超えた何かが働かぬ限り、そんなことは起こらないのです。」
「なるほどねぇ。だけど、あんたは他の国のことをよく知っている。人脈もあり過ぎる。もしかしたら上手いこと言って、あんたを手の内に入れといて、人知れず処刑、なんてことになりゃしないかねぇ・・・。無策な国ほどやりたがることさ。」
 マグダレナは溜息をついた。実際に、無実にも関わらず追放されたり避難してきたりした女たちを幾人か保護してきたからだ、
「しかし、キャプテン。それならば、何も今さら私を探して呼び寄せたりはしないと思いますよ。ただ何もせずに国外をうろうろさせておけば済むはずです。
 私はウユニに帰港したら、アムリタ様のお力を借りるつもりです。私が一度ウユニまで往復することにしたのは、陽壮帝陛下が時を待てるお方かどうかを見極めるためと、オンネト帝陛下とアムリタ様にお伺いを立てるため。あのお二人なら、正しく判断して下さるはずです。」

七.新たなる菩薩

 観光のうねりは、ウユニにも押し寄せたが、それは善き影響のみをもたらした。何しろ人々の関心を引いた覚者ルシャナが留まる場所というのが、海からも見える時間城という大きな建物で、外見はすぐに見られたし、まさか皇帝が住まいする場所を観光客がドカドカと踏み荒らす訳にはいかないというので、中にまで入ろうとする者はなかった。
 それに、ウユニに住む人の容姿が多彩である理由が惑星ルシアそのものの力であると明らかとなった以上、それまであったウユニ人への差別や偏見はほとんどなくなったのである。
「何とか無事に収まりそうですね、父上。」
 城内から街を見渡していたアムリタが、オンネトに言った。以前と比べて、外国人観光客の姿が増え、様々な容姿のウユニ人たちと親しげに話をしているのが分かる。
「うむ。アレクセイ帝陛下がうまく裁かれたお陰かな。お前も、よくぞ便りを送ってくれた。」
「いえ。私はただ、覚者ルシャナ様とお目にかかったことをお知らせしたに過ぎませぬ。」
「そうか。アレクセイ帝陛下も、きっと覚者ルシャナ様にお会いになるに違いないな。」
「はい。」
 アムリタは微笑んだ。
「だが、守護精霊テティス殿が菩薩というものになられたことは書いたのか?アレクセイ帝陛下の演説内容から察するに、どうもご存知ないように思われるのだが。」
「それは書きませんでした。そのことは伏せておいたほうが良いように何となく感じたのです。」
「ほう、何となく、か。」
 オンネトは娘の頭を撫でた。

 ルナ・ブランカ号が日程通りに帰港したのは、それからひと月後だ。シャンメイがマグダレナに付き添われて時間城を訪れた。
「ほう。陽壮帝陛下がそのようなことを?」
 シャンメイから話を聞いたオンネトは、少し驚いた表情を浮かべる。
「はい。陽壮帝陛下は御自ら精霊とお話を交わされたようです。蓮は、覚者ルシャナ様ゆかりの花。お話から推測すると、覚者ルシャナ様が私にアルリニアの自然の秩序を取り戻せと仰っているのではないかと思われてならないのです。」
「わかった。私から覚者ルシャナ様にお尋ねしてみよう。しかし、君自身はどうなのだ?このままルナ・ブランカに乗り続けるか?それとも、母国の人々のために尽くしたいと心から思っているのかな?或いは母国で働くにしてもそれは覚者ルシャナ様のご意志ならば従うということか?」
 シャンメイは少し考えてから言った。
「できれば帰国して人々のために働きたいと思っております。少なくとも陛下が今仰ったような理由が私にはございます。さらに私は、環境設計家になるべく育てられた者です。
 これまでは、アルリニア特有の情勢がそれを許さなかったのですが、いざ帰国して環境設計の実践が出来るということになると、やはり戸惑いを感じます。陽壮帝陛下とは、どのような方なのでしょうか?」
「そうだね。陽壮帝陛下は、あまり従来の枠には捕らわれぬ方だ。活動的といえば活動的な・・・。良いと思えば躊躇なく慣習を破られる。御自らお一人で森に分け入られたということも充分にあり得る話だ。
 それでは、覚者ルシャナ様にお尋ねしてくるまで暫し待て。明日また改めて来るが良い。」
「どうもありがとうございます。」

 オンネトは、『くうの間』に入って坐した。すぐにはルシャナを探さず、先ずひと月前のアルリニアの様子を見る。馬車に乗っていた陽壮帝の目の前に蓮の花が現れ『シャンメイ・リン』という声が聞こえた。それから少しずつ時間を遡っていくと、確かに陽壮帝は森に深く分け入り、一頭の雌獅子と話をしていた。
(アルリニアの精霊とは、あの獅子なのか・・・。)
 オンネトが、そう思った時、ルシャナが姿を現した。
「あれはシースー。アルリニアにおける最初の弟子だ。」
「覚者ルシャナ様・・・。」
 オンネトは、坐したまま軽く頭を下げた。挨拶はそれのみで良いと、ルシャナから言われている。
「蓮の花は、シースーの菩薩心の表れなのだ。シースーは、精霊たちの助けを求める声に菩薩心で応じた。土地柄、あれには苦労をかけておるが、それが故にその心は必ずこの上なき喜びにて大きく報われよう。」
「それでは、アルリニアでは人ばかりではなく、精霊たちも助けを必要としていると?」
「その通りだ、オンネトよ。シャンメイにも菩薩の道を開かせよ。」
 ルシャナは消えた。

 オンネトからその話を聞いたシャンメイは、何事かを長いあいだ考え込んでいたが、翌日オンネト、アムリタ、マグダレナを前にして、こう言った。
「私は、やはり本来の責務を果たしとうございます。この次のアルリニアまでの旅が、私にとって最後の航海となるでしょう。ただ、かの地においては、私利私欲でない証を示さなければなりますまい。私は、オルニアの尼寺にて出家いたします。」
 マグダレナが叫んだ。
「何だって?!尼さんになるっていうのかい?!そんな馬鹿な!」
 だが、シャンメイの意志は固かった。
「キャプテン、アルリニアでは権力が富と結びつきやすいのです。普通の者が突然現れて力を持てば、必ず反感を買います。尼僧になれば、その危険は少なくなるでしょう。務めを果たすには、少なくともその時までは生き延びていなければなりません。そして残念ながら、アルリニアには寺という制度そのものが無いため、最も近い寺はオルニアになるのです。この身はもとより孤児。ベッカーの父から託された務めはやはり命かけて成し遂げたいのです。オンネト帝陛下、アムリタ様、どうか我が願いをお聞き届け下さい。」

 その言葉通り、シャンメイはオルニアに着くと尼寺を訪ねて得度した。法名は梅月尼ばいげつに
 アルリニアでは、陽壮帝が数多くの臣下を従えて港まで迎えに出ていた。船から下りてきた彼女が僧形なのを知ると、一同はたいそう驚いたが、彼女の話を聞いて納得したようだ。陽壮帝は、一同に言い渡した。
「皆の者、この尼僧の話を聞いたな。尼僧は、ただこの地の人々と精霊たちの生命と生活を守らんがために、自ら出家してまでアルリニアに帰ってきてくれたのだ。これにて、全ての疑いは退けられるであろう。
 只今この時より、梅月尼を全権参与に任ずる!余の他に何人たりとも梅月尼の指示に逆らうことは許さぬ。余は梅月尼の指示を正当なものと認めればそれを遂行する。」
 一同はその言葉に驚きながらも平伏した。

「先ずは、この地の精霊シースー殿にお目にかからなければなりません。皇帝陛下、シースー殿とはどちらでお会いになりましたか?」
 シャンメイ=梅月尼は言った。陽壮帝は応えた。
案内あないしよう。しかし、さすがはウユニ公船の乗組員。早速あの精霊の名まで調べて来たか。」
「いえ。私は幼き頃より『星法の書』に親しみ、シースー殿の名はすでに知っておりました。更にこの度、オンネト帝陛下にお伺いを立てたところ、陛下より、覚者ルシャナ様が直々にお教え下さったと聞いたのでございます。」
「オンネト帝陛下か。確かにあの方ならば可能だな。・・・梅月尼よ。ついて参れ。」
「はい。」

 陽壮帝は、伴を信頼できる者たちだけに絞って、シースーと出会った森の入口まで梅月尼を連れて来た。
「ここより先は、完全なる自然林だ。皆、心して進め。」
 しかし、梅月尼は言った。
「皇帝陛下。シースー殿がお待ちになっているのに、危険など有ろう筈がありませぬ。精霊たちが私たちを歓迎してくれているのがおわかりになりませぬか?」
「何?そなたには、それが分かるというのか?」
「聞こえます。精霊たちが歓待の歌を歌っているのが・・・。こちらだよと案内してくれているのが・・・。」
 彼女は森の奥へと進んでいく。陽壮帝と伴の者たちは懸命に後を追った。

 日が暮れ始めた頃、木々のあいだから獅子が現れた。
「ようやく来てくれましたね、新たなる菩薩よ。私がシースー。覚者ルシャナ様のお弟子のひとりです。」
「お初にお目にかかります、シースー様。貴女がお召しになったシャンメイ・リンです。貴女は今、私のことを『新たなる菩薩』と呼びかけられました。それは、如何なる訳でしょうか?」
「貴女は、人々や精霊たちを救うために自ら尼僧となられました。それが菩薩道に入られている証です。菩薩道にある者たちは皆、あまねく菩薩だからです。梅月尼様、私は貴女がこの地に足を運ばれる度に、貴女に宿る大いなる菩薩心を感じ取っていたのです。どうか、この地にある生命たちをお救い下さい。」
 精霊はより近くに身体を横たえて深く頭を垂れた。梅月尼は何気なくシースーの身体を抱き留めて、頬をさすった。シースーは、それがかつて誰だったかを思い出した。
(ルイーザ様だったのですね・・・ずっとお会いしとうございました・・・ずっと・・・。)
 梅月尼は、シースーが涙を流していることに気づいた。
「シースー・・・何故泣いているのです?」
 彼女は自分でも気付かぬうちにシースーを呼び捨てにしていた。いつか、とても親しげに触れ合っていたかのような不思議な感覚だった。
「貴女は、遠い昔に私と親しくして下さっていたのです。どうかまた会いに来て下さい。そして、全ての生命をお救い下さい・・・。」
 シースーは姿を消した。

八.創聞庵

 陽壮帝は、梅月尼が精霊獣と心から触れ合っている様子を見て、彼女が本当にシースーから喚ばれていた者なのだと思った。他の者たちも同じだ。
「シースー殿とは、以前からの知り合いか?」
「いいえ、私は初めてでございます。しかし、シースーは、私のことをかつて親しくしていたと言っておりましたし、私も何故かそのように感じ、呼び捨てにしております。『星法の書』では、魂は循環するとあります。私は、おそらく前に生を受けた時には彼女と縁深き生涯であったのでしょう。」
「前世、ということか。
 時に、これから何をする?先ずはそなたが住まいする場所を定め、生活を整えなければならぬ。務めはその後だ。とりあえずは宮殿で過ごすが良い。」
「いいえ。お気持ちは有難き事ながら、尼が宮殿に住まいするのは、菩薩道に反します。暫しの間はどこかの民家に泊まらせていただければ幸いでございます。
 そして、さっそく明日から環境設計を始めたいと存じます。つきましては、この大陸の最古の地図と、現在の詳細な地図を調べとうございます。」
「地図か。わかった。そのように手配しよう。二つを見比べるのだな。」
「左様でございます。自然の流れを読み取り、もしそれを阻害しているものがあれば、そこを改めます。それが環境設計学なのです。」
 陽壮帝は、その場に控えていた文化省長官・孫芙蓉に目を向けた。年の頃、五十くらいの女性である。
「そうか。ならば、芙蓉、そなたの家にしばらく泊めてやれ。そのあいだに梅月尼の様々なことを決める。」
「畏まりました。我が家に梅月尼様をお迎えできること、誠に光栄に存じます。」

 芙蓉の家は、首都・保千市内の町外れにあった。陽壮帝が梅月尼の宿泊先にそこを指定したのは、そこが宮殿から程近く、静かな場所で、なおかつ文化省長官という職業柄、芙蓉自身が多くの文化的コレクションを収集していたからであった。また、政府要人の家ということで警護官もいる。新しき参与の仮住まいとして、これほど打って付けの場所はない。芙蓉には、可磨という二十の娘がいる。女同士ならば、気が合うだろうという配慮もあった。
「どうか、あまりお気遣い下さいますな。私は尼でございます。一人の僧として質素を心がけておりまする。」
 梅月尼は言った。到着したその日に出された食事が豪華すぎたのだ。部屋も十畳ほどもある。
「しかし、梅月尼様は、全権参与になられた御方。粗末に扱っては、皇帝陛下に叱られます。」
 芙蓉と可磨はすっかり恐縮している。梅月尼は微笑んだ。
「同じ女性同士。何の遠慮が要りましょう。ましてや貴女も皇帝陛下のお側近くにお仕えする御方。これから私は貴女方にもお力をお借りしなければなりませぬ。どうかよろしくお願い致します。」
 頭を下げる梅月尼に、親子二人は共に感動を覚えた。長く国外にいることを余儀なくされたというのに、出家してまで帰国して、人々のために尽くそうとするこの女性は、あくまでも尼として慎ましい暮らしを求めておられるのだ。
「貴女が如何に尊い御方か、本当によく分かりました、梅月尼様。どうかこの屋を我が家と思し召してご逗留されますように。私どもは共に心より貴女様のお世話をさせていただきます。」

 梅月尼は、翌朝早くから起床して二つの地図を比較し始めた。大陸は人々によってかなり地形を変えられていた。工業立国アルリニアでは、山が切り開かれて、工場や都市が作られ、川もせき止められている。これからあちこちに足を運ぶつもりだが、辛うじて残っている山々も、おそらく人工林になって地盤が脆くなっていることだろう・・・。
 七時になると朝食の支度が調って、可磨が彼女を呼びに来た。
「おはようございます。あら。梅月尼様、もうお仕事をされているのですか?!」
「菩薩道にある者たちは皆、朝早く起き、坐禅などを致します。私も四時に坐し、今朝は五時から地図を見ておりました。おそらく今日からしばらくはこのような生活を送ります。」

 九時になると、彼女は芙蓉と共に宮殿・悠花宮に出仕した。
「昨夜はよく眠れたかな?」
 陽壮帝は、笑顔で彼女を迎えた。
「はい。芙蓉様と可磨様のお陰をもちまして。」
 実は、本当に久しぶりの陸での眠りでなかなか寝付けなかったのだが、芙蓉親子の細やかな心配りには安んじていた。またとない仮住まいである。
「早速だが、そなたの居場所は如何する?何なりと望みを申せ。」
「はい。菩薩道にある者たちは本来『寺』というところで共同生活を送るか、一人で『庵』なる最低限の物しか置かぬ小さな家屋に寝泊まり致します。
 私は、環境設計の務めを果たすため、一人暮らしのほうが望ましいと考えます故、芙蓉様のお宅近くに『庵』を組ませていただきとう存じます。後日、設計図を作成致します。何分にもよしなに。」
「あい分かった。しかし、菩薩道にある者たちとは、皆そのように禁欲なのか?ただ一つの人生、もっと楽しく生きても良いのではないかな?」
「恐れながら、寺や庵で修行生活を営むことは、菩薩道を実践し、この上なき喜びに触れることに他なりません。決して物質が身の回りに多く存在していれば幸せとは限らないのです。かえって必要最小限の物しか置かぬほうが、物事がよく見えます。そうした状況に身を置いてこそ、自然の流れがよく見えて、環境設計学を正しく行うことが出来るのです。また、本当の豊かさとは、そういうことです。ただ一度の人生ならばこそ、最高の生き方でありたいと、私は思いまする。」

 梅月尼のための庵が完成したのは、それから二月ふたつき後である。木造の平屋で板葺き、六畳ほどの板閒を中心に、玄関、風呂、厨房、手洗い場に加え、環境設計学のために必要な資料を置く書斎と、数人の客をもてなす茶室も作られた。彼女は入り口に『創聞庵』と記した。
 陽壮帝は、その名の由来を尋ねた。
「聞くを創す、とは如何なる名かな?」
「はい。かつて覚者ルシャナ様は、この地にもお越しになりました。ですが、残念なことに当時はその尊き教えを聞く方がおられませんでした。
 今、私が微力ながらも『星法の書』に記されている『この上なき喜び』『法理』『智恵』を、人々にお聞かせすることが叶いましたなら、環境設計学の実践の、更に増しての喜びを得ることが出来ましょう。それ故に、この地に『聞くことを創す』という名を付けたのでございます。
 私の養父・ベッカーは、覚者ルシャナ様がお作りになった用水路を見て育ったそうです。人々のためになる建築を目指すうちに、考える規模が自然全体にまで及び、それが後に環境設計学となりました。今にして思えば、養父も意識せずに菩薩道に立っていたのかも知れませぬ。そして私共きょうだい七人、皆それぞれの形でその道を歩んでいるのです。」
「そうであったか。そなたが得度とやらをして間もない筈なのに、あたかも元から尼であったかのように詳しいのも、そのためなのだな。初めは表向きのみかと思っておったのだが。」
「幸いにして、オルニアは覚者ルシャナ様の故国・カルタナの次に教えが広まっている国です。養父の影響もさることながら、オルニアにいたことで、私も一通りの知識を持てたのでございます。
 そして、先日のライランカの一件。実はその時、私もアムリタ姫様と出会っていたご縁で湖畔宮殿内にも参りました。覚者ルシャナ様の教えが、今また蘇ろうとする時に。『星法の書』に記されていることは事実なのです。」
「何?そなた、湖畔宮殿に足を踏み入れたと申すか!」
 陽壮帝はたいそう驚いた様子だ。梅月尼は、赤子の頃にアルリニアを去ってから得度するまでの経緯をかいつまんで彼に聞かせた。ただ、アムリタが船に乗った本当の動機は伏せて『魂帰しの儀式』のため、としておいたが。
「そなたは、やはり只者ではなかったのだな。オンネト帝陛下だけではなく、アレクセイ帝陛下とも、面識を得ていたとは・・・。」
 それに、どうやら我が国は、機械技術立国よと自らを誇りながら、精神面ではいつの間にか他国に後れを取っていたようだ。勿論かような話題が外交で出る筈もない。それに気づかずに今日まで来たか・・・。陽壮帝は心の中で苦笑した。
「梅月尼よ。頼みがある。環境設計学の実践が軌道に乗ったならば、月に幾度か、皆の前で法話を聴かせてくれ。」
「畏まりました。」
 梅月尼は慎ましく合掌した。

九.智恵と力

 梅月尼は、自分の足でアルリニア全土を回ることにした。そのことを告げると、陽壮帝はたいそう驚いた。
「全土を廻るとな?この国は広い。何ヶ月かかるか分からぬぞ。」
「何事も、自分の目で確かめてからでなければ判断は禁物です。その事は皇帝陛下ご自身が最もよくお分かりのはず。シースーに会いに行かれた時、陛下はどのようなお気持ちでしたか?」
「そうか、そういうことか。・・・だが、せめて警護は付けさせろ。そなたに何かあっては困る。まだ何も成していないのだからな。」
 二人の女性警護官が僧形で付いた。宋柚恵と琉秀花、各々自分の名をそのまま僧名として名乗ることになったが、何しろ出家という制度が根付いていない国である。彼女たちには、まず僧たる者がどのようなものか、身の処し方から教えなければならなかった。
「挨拶をする時は、敬礼ではなく合掌でお願いします。合掌とは、このように両方の掌を胸の前で合わせることです。身分を悟られぬよう、私のことは『庵主あんじゅ』と呼んで下さい。庵のあるじという意味です。それから、あなた方は、私がどなたかに話しかけている時は、少し離れていて下さい。決して相手の方を怖がらせてはなりません。」
「は。」
 二人は敬礼しかけて、慌てて合掌した。
「はい、庵主様。」

 そして、各地に赴くと、その地に住む年寄りから多く話を聞いた。その地はもともと雨が多いか少ないか、山々はどのようになってきたのか、獣や虫たちに何か変化はないか、といったようなことだ。見なれぬ服装ながら、穏やかそうな女性が慎ましい佇まいで話しかけてくるので、ほとんどの村人は本音で話してくれた。
「そういえば、このところあんまりトンボを見かけなくなりましたなぁ・・・。」
「それは、いつ頃からですやろか?」
「うーん・・・確か、十年くらい前からやろか。」
「そうそう。あのダムが出来始まってからやったかなぁ・・・。あん時は、人がぎょうさん来て、宿賃をたんまりもろうたけど。今じゃまた元のまんまや。」
「そうですかぁ。お忙しい所、すみませんでしたなぁ。おおきに。」
 適当に方言を交えながら、梅月尼は周りを見渡す。なるほど、ダムで川の水が少なくなればトンボの幼虫はいなくなって当然だ。水田にも田螺や、それを啄みに来る鳥の姿がない。
 それは、山の麓の村でも同じだった。自然林が杉林になってから、たびたび崖崩れや鉄砲水に襲われるようになったらしい。

『世に無駄と呼ばれる命なかりけり桜も花の時のみならず』
 オルニアの高僧・山科総元の言葉である。八十年前に永眠した彼は、『星法の書』を現代語に訳し直し、覚者ルシャナの教えをなんとか後世に繋ぎ止めようとした。梅月尼がすぐに得度できたのも、この高僧が地ならしをしてくれていたお陰である。
(全ての命は、同じように尊ばれるもの・・・。人間の都合だけで、自然を変えて良い筈がない・・・。)
 梅月尼は、地図のあちこちに線や円や文字を書き込んでいった。

 二人の警護官は、実は梅月尼の監視を兼ねていた。しかし彼女は本当に地理を調べているばかりで、少しも怪しい素振りを見せない。菩薩道についても、彼女たちにも村人たちにも何も話さなかった。
「庵主様は、菩薩道というものについて、私たちにはお話しにならないのですか?」
 秀花が問いかけると、梅月尼は合掌しながら答えた。
「時を待たなければ。今はまだ何を話しても無駄です。菩薩道を話すには、まず皆様に私自身を認めて頂かねばならないのです。それは数年かかるかも知れません。でも、それは必ず成さねばなりません。」
 時には排他的な村人たちから石を投げつけられることもあったが、梅月尼は錫杖で払いのけるだけで凌ぎ、ゆっくり時間をかけて話を聞き出した。
 ある村人が彼女を咎めて言った。
「あんさんはなんであちこち聞いて廻っとるんや?間者かんじゃとちゃうか!」
「私は、この国の人々の生命と生活を良くしたいのです。そのためにはどうするべきかをあなた方に教えて頂いているのです。」
「そんなん言うたかて、あんさんに話しても何にもならへんやろ。どうせ、こんな貧しい所には何も出来はしまへんのや・・・。」
 村人は俯いた。梅月尼は、彼をじっと見つめてからこう言った。
「仕方がありませんね。それでは事情をお話ししましょう。・・・実は、私は皇帝陛下直属の手の者。彼女たちは警護官なのです。」
 梅月尼は、陽壮帝から貰っていた身分証明書を懐から取り出して見せた。警護官たちも警察官証を提示する。梅月尼はともかく、警察官たちの提示の仕方はまさしく本物だ。
「それでは、あなた方は皇帝陛下の・・・。失礼しました。どうかお許し下さい。」
 村人たちは平伏した。
「分かって下されば、それで良いのです。非は、始めにそう名乗らなかった私たちにあります。本音をお聞きするためとはいえ、あなた方に疑念を抱かせてしまい、申し訳ありませんでした。どうか、あなた方のご意見を率直にお聞かせ下さい。」
 梅月尼は村人たちの傍に膝をつき、一人一人の手を取って話しかけた。
(この方のお心は広い・・・。)
 二人の警護官たちもその場に座った。彼女たちは、いつの間にか本当の弟子のようになっていった。

 陽壮帝は、彼女が持ち込んだ地図を見て、書き込まれた線や文字の多さ、緻密さとその改変計画の大胆さに驚いた。
 ダムの横には別途水路を作り、下流の川を海まで通すばかりか、その周辺で特に海抜の低い村や町を丸ごと高台に移す。岸辺には柳や梅の木を植え、田畑をそこに集める。山々には、その気候に合った樹木を散らして植える。・・・確かに理に適った配置のようだが、その全てを成し遂げるには、膨大な金と人手がかかる。
「確かに大鉈を振るえとは申したが・・・。」
 陽壮帝は、始め渋い顔をした。
「人手は、菩薩舎の人々がいるではありませぬか。彼らも本当は真っ当に働いたお金で生活したい筈です。それに、水害などが起きる度に工面する予算と比べれば、桁違いに少のうございます。あとは皇帝陛下のお力を持ってすれば造作もないこと。」
 梅月尼は合掌して、それきり口を閉じた。
「あぁ、分かった分かった!何とかしてみよう。梅月尼、そなたは本当に知恵者と見える。」

 アルリニアでは、市民議会の機能が完全に形骸化していた。あらゆる事が皇帝の意のままになる。先代の応安帝は典型的な専制君主だった。幼き頃の揺壮帝は、そんな父の子に生まれたことを悔いて育った。そして自分は決して父のようにはなるまいと誓っていた。しかし今は、その絶対性が必要なのだ。なんと皮肉なことであろうか・・・。

 計画は、その通りに実行された。菩薩舎に集められていた者たちは、働ける者は全て駆り出された。しかし、それで正当な賃金が支払われることを知ると、人々はどんどん仕事を求めるようになった。そうして新たに整えられた田畑や人工林や機械工場に、正式な働き手として雇われていった。住む場所も、自分たちが関わった所である。愛着を感じざるを得なかった。

 やがて、陽壮帝は名君と称えられるようになった。彼は臣下を集めてこう言った。
「皆の者、世は滞りなく収まってきておる。人々は、余を名君などと称えておるようだが、それは正しくない。先だって全権参与とした梅月尼が策を立て、余はそれを推し進めたに過ぎぬ。いわば、智と力が揃って、人々の役に立ったのだ。これより後も、余はそれを維持するつもりだ。また、他の者も、もし何か思うところがあれば、遠慮無く申し出よ。決して咎めるようなことはせぬ。以後、いっそうの任務に励め。
 それから、梅月尼が菩薩道なる道を開きたいと申しておる。千年前にこの地を訪れた覚者ルシャナの教えだそうだ。皆、心してその言葉に耳を傾けよ。」

 陽壮帝は、海外にも門戸を開いた。小さな港町・泰安を大きくし、他にも四カ所の港を新設した。それらから多くの人や物が入った。
 梅月尼は彼の許しを得て『星法の書』を大量に輸入し、政府要人や地方の行政長に配った。いよいよ法を説く時が来たのだ。

一〇.三日間の法話

 梅月尼による初めての法話が行われるというその前日の夕刻、精霊獣シースーが創聞庵に現れた。ひとり坐していた梅月尼は言った。
「シースー、よく訪ねてきてくれました。いよいよ説法が出来るまでになりましたが、私には自信がありません。覚者ルシャナ様と同じようにはできないと思うのです。」
 シースーは彼女の膝先に身を伏せる。
「梅月尼様、どうかその御心のままに法をお説き下さい。貴女様には大いなる菩薩心を感じます。菩薩心が『この上なき喜び』への最初の扉を開くものであるからです。」
「シースー・・・。」
 梅月尼は、シースーの体に触れ、その背中に抱きついた。温もりが伝わる。

 法話は、宮殿の中庭で行われた。陽壮帝と中央官僚、地方の行政長などが三日間という約束で集められている。
 梅月尼は中庭の中央に敷かれた広い布の上に坐していた。人々は、彼女が中庭に降りているのを見て戸惑ったようだが、陽壮帝が自らも中庭に降りて座ると、彼に倣った。
「皆様、ようこそお集まり下さいました。ここにて法を説く機会を与えられましたこと、この尼にはこの上なき幸せにございまする。どうか同じように坐して寛ぎながら、尼の話をお聞き下さい。警護の方々もどうぞお座り下さい。ここには何の危険も及びませぬ。」
 周りを囲んでいた警護官たちも、皇帝が何も言わぬのを見ながらバラバラと座った。
「これより私がお話しする内容は、人が生きていく上で最も重要な心の在り方についてでございます。それは今から千年前、覚者ルシャナ様によって明らかにされたものです。覚者ルシャナ様は、その身を以て『この上なき喜び』を体験なされ、それを書き記されました。それが今日まで広く伝えられている『星法の書』でございます。人が知りうる最高の幸せとは何かが、そこには書かれているのです。そして、その内容を実践し、他の人々にも伝えることのみを暮らしとする者たちのことを僧侶と言い、その中で女である者たちを尼と申します。私もその一人でございます。
 ルシャナ様はこの地にも立ち寄られましたが、その当時は教えが広まることはありませんでした。しかし他の国では『星法の書』が広く読まれております。今は私から皆様にお伝え致しましょう。

 そもそも、私たちが今目にするもの、耳にするもの、香りを嗅ぐもの、舌で味わうもの、身で触れるもの、更には心で感じ、思い描くものは、どれひとつが欠けても私たちには認識できなくなるものばかりです。
 そしてまた全ての存在は、いつかは姿を変え、滅び去るものばかりです。この大地でさえ、人が想像出来ぬほど遠い未来には滅びるのです。それほど大きな規模ではなくても、例えば人がひとり亡くなったとします。その人にとっては、どうでしょう?地位も名声も、権力もお金も肉体も記憶も、何もかもが無くなるのです。何もなくなって、それでも魂だけは残るかもしれません。その時に救いとなるもの、またその時までにも救い或いは励ましとなるものが『法理』にかなった『この上なき喜び』なのです。
 『法理』とは、私たちが今存在している『宇宙』の性質のことで、全てが『円を描くように丸くなろうとする』『渦を巻くように循環する』らしいことが分かっています。つまり、魂もまた循環するのです。私たちにとっての『生きること』もまたその循環の一部でしかなく、いつかは滅び去る運命を背負って生きる苦しみ哀しみを繰り返すことに他なりません。また、自分の生命を維持する為には、どうしても他の生命体を殺して食し続けなけれぱならないのです。このことに気付かれたルシャナ様は、星の精ルシア様と同一存在になられる以前は御自らを『半身の覚者』だと宣言されました。そして、全ての命たちに感謝するために、合掌という事をされました。両方の掌を胸の前で合わせる動作です。故に合掌は多岐にわたり、私ども僧侶の基本動作となっております。
 それではどうしたらその循環する運命を超えることができるかと言えば、それこそが自らを真の覚者と成すこと。そして、覚者となるためには何をすれば良いのか。それこそが菩薩道に入る事なのです。諸々の欲を絶ち、只々人のために尽くす喜びを知ると、その人自身がどんどん幸せになっていきます。その時に人は『菩薩』となるのです。一度だけでもその感覚を味わった人は、元の欲まみれの生活を疎ましく思うでしょう。それこそが最高の生き方なのです。」
 梅月尼は、その日はそこで合掌して慎ましく口を閉じた。

 次の日は雨が降った。中庭には人々の上に覆いが張られている。
「皆さんの上には今、覆いがかけられていますが、旱の時にはどうでしょう?恵みの雨と言いませんか?このように、一つの事柄にも幾つもの見方がある。何事も一つの見方だけで判断することは出来ないのです。前回は生死を繰り返すことが苦しみ哀しみだと言いましたが、それも別の見方をすれば、それらの苦しみ哀しみはその人の死によって、またはその人自身が生きながら覚者や菩薩となって雑念を全て滅する時までのほんのひとときの事に限られるのです。どんな苦しみ哀しみも、『この上なき喜び』によって、必ず乗り越えられるものとなります。そのように思えば、心は少しでも軽くなると思います。
 それでは、今日は皆様に『坐禅を組む』ということについてお話ししましょう。
 坐禅は、身体の動きを止め、大きな刺激となる視界を遮り、自分の呼吸だけに意識を集中させる行為です。この時、心は日常から離れて、無意識界に気づき易くなります。しかしそれはまだほんの入り口に過ぎません。私たちが真に目指すのは無意識界の更に下に潜んでいる『阿頼耶識あらやしき』です。その層においては、全ての生命体がお互いに繋がりあっているのです。覚者ルシャナ様とも、他の人々とも、獣たちとも、草木たちとも。
 そして、菩薩道にある者たちは、そこに善き種を植え、育て、決して枯れることのない花を咲かせることが出来るのです。その花はまた善きことの種となり、『この上なき喜び』を齎してくれるのです。そのようにして生きていくこと、これほどに尊く楽しいことはありませぬ。
 一日に一度、一時間でも三十分でも構いません。坐禅を日課にしてみて下さい。何かが変わってくるかもしれません。」
 梅月尼は合掌して慎ましく口を閉じた。

 三回目の法話は、陽壮帝の質問から始まった。
「梅月尼よ。そなたが言わんとする内容は分かった。それらは実に単純明快なことのように思える。しかし何故それが我が国には伝わらなかったと思うか?率直に申してみよ。」
「それは恐らく、当時の人々が目の前に見えている事柄にのみ価値を見いだしていたからでございましょう。たとえ目の前に突き出されていても、自分から意識して見なければ存在に気が付かない、そのようなことが世には多々あるものでございます。」
「それでは、我が国民は盲目であったと申すか?」
「いえ。時が違ったのです。何事もそれが成されるに相応しい時が来なければ成就されませぬ。先日のライランカの一件でも、守護精霊テティスは救われるのに三千年の時を要しました。阿頼耶識の種は、そのように長い時を経てようやく花を咲かせるのです。
 皇帝陛下、そして皆様、『阿頼耶識』及び『菩薩道』の仕組みは単純明快ですが、そこに明かりをともし、花開かせるのは、決して容易くはないのです。私もこの生涯で阿頼耶識に明かりをともし、花開かせられるかどうかについては、全く自信がございませぬ。しかし、少なくとも菩薩道の上にはいるはずだと自分を励ましているのです。そして、いつの日か覚者ルシャナ様ともお目にかかり、『この上なき喜び』を共にさせていただきたいと願いながら菩薩道を歩んでいるのです。
 一方で、比較的容易く阿頼耶識に明かりをともすことが出来る方々もおられます。彼らは天賦の才に恵まれたか、それまでの善き因縁に恵まれた方々ですが、それでも真に聡明な人ならば尚更坐禅を欠かさぬ筈です。すでに坐禅そのものを目的とするようになっているからです。」
「それでは、精霊獣シースー殿はどうなのだ?確か、この次の生涯は人として生まれたいと言っていたが?」
「シースーもまた菩薩道にあり、私たち人間と全く同じなのでございます。寿命が長い分、私たちよりはるかに辛い道を歩んでいるのかもしれませんが、それもまた宇宙の理の一つなのです。
 最後に、陛下に申し上げます。全ての命は等しく、何人も平等に扱われなければなりません。陛下におかれましては、これよりはどうか惑星市民条約機構の制度に基づくまつりごとを推し進められますよう。」
 陽壮帝は、梅月尼の『最後に』という言葉を聞き逃さなかった。まるで今生の別れをされているかのように感じたのである。
「最後に、とはどういうことだ?」
「陛下のご尽力を賜り、全権参与の役割は果たすことが出来ました。私はこれより後は各地方を廻り、より多くの人々に直接説法したく存じます。
 私が市中で話す内容は、この三日間と全く同じ。どうか市中にても説法することをお許し下さい。法理を知る権利は、全ての生きとし生けるものにあり、宮殿にお出入りを許された限られた方々だけのものではないのでございます。」
「そうか。あい分かった。好きにするが良い。だが、くれぐれも無理はするな。そして、そなたには改めて『総師』という肩書きを与え、引き続き余の直轄であると通達しておく。さすれば、そなたに害を為す者はいなくなるであろう。」
「ありがとうございます。」
 梅月尼は合掌して慎ましく口を閉じた。

 しばし休憩して創聞庵に帰ろうとすると、陽壮帝が幾人かを伴って梅月尼を引き留めた。
「梅月尼、この二人がどうしてもそなたに付いて行きたいと申しておる。聞き届けてやってはくれまいか。」
 それは、環境設計のための調査の折、警護に付いた柚恵と秀花だった。
「どうか私たちを生涯のお弟子として下さい、庵主様。」
「私も、菩薩道に入らせて下さい。お願い致します。」
「貴女たち・・・。貴女たちも尼になると言うのですか?出家するということは、生涯を独身で貫くということですよ。先の旅の中でお話ししたではありませぬか。」
「はい。ですが、私は庵主様の御心の尊さに心打たれました。心から庵主様を生涯かけてお守りしたいと思うのです。法話を伺い、さらにその思い抑えがたく、皇帝陛下に辞意を申し出ました。」
「私も同じです。庵主様からは、僧侶としての得難く尊い生き方を学ばせていただきました。法理を求め、広めるより他に、何の喜びがありましょう。」
 二人はそれぞれに目を輝かせて強い思いを語り、合掌した。
「そうですか・・・。わかりました。弟子入りを許します。創聞庵に帰ったら、得度式を整えましょう。」

 それからひと月後、三人の尼僧が全国を巡るべく創聞庵から旅立った。

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三毛猫モカ@エッセイスト&プログラマ
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