月に一度、天国に行ってみる
天国みたい!
子どもの頃、おばあちゃんに連れていってもらった銭湯はいつも夢の世界だった。身体をピカピカにした後、広いお風呂で思いっきりバタ足の練習をして、帰りに瓶入りのコーヒー牛乳を一気飲み! 今もそう。私にとって銭湯はいつだって天国なのだ。
大人になってからはその天国に一人で行けるようになった。京都には古くて趣きある銭湯がたくさんある。500円出せばおつりがくる。パスポートもビザもいらない、とっても手頃な天国への旅。
初夏の京都、憧れだった銭湯まで自転車を走らせる。築100年の船岡温泉。欄間の透かし彫りやマジョリカタイルが美しく、長く親しまれてきた銭湯の雰囲気がとても懐かしくて心地いい。
扉を開ければそこはまさに天国だ。くすり風呂、ヒノキ風呂、電気風呂、水風呂にサウナ。さらに露天風呂まである。
小さな子どもが電気風呂の水流に逆らって楽しそうに泳いでいる。母親はそれを幸せそうに見守っている。
部活帰りの女子高生たちはサウナと水風呂を繰り返しながら、整いました! とはしゃいでいる。
好きなだけ髪の毛のお手入れをしたり、足先まで入念に洗ったり、誰にも邪魔されない自分だけの自由な世界があちらこちらにある。
ここでは何の肩書も求められないし、何かを期待されるわけでもなく、何も頑張らなくてもいい。裸になってしまえば、その人の人生がただそこに在るだけだ。
結局、人って最後はこうなるんだろうな。お湯につかって深くひと呼吸。あらゆるものから解放されて、私の妄想劇場が始まる。長い人生を終えてやっと天国にたどり着いた。生きていた時間をぼんやりと振り返る。
私はいつも容姿や年齢のコンプレックスに悩まされていた。けれど天国に来てしまえば、そんなものは大して意味をもたなかったと気づく。
永遠に新しいままでいるのは不自然だし、年月が経てば古くなる。歩んできた道のりが勲章のように身体に表れる。アンティークのように丁寧に扱えば、それなりの歴史がにじみ出て、個性や美しさになるだろう。
生きていた頃は、周りの評価を気にして頑張りすぎていたかもしれない。大人として、社会人として、女性として、母として。誰かの望む人生をどれだけ生きたって天国に来てしまえば何も残らないのに。
そして、未来への不安や余分な感情をかき集めて、わざわざ視界を曇らせていたように思う。余計な荷物は手放して、季節や出会い、一期一会の瞬間を大切にしていこう。
キャリアや収入だってそうだ。お金も家も洋服も。形あるものは何一つ天国には持ってこれない。引き出しにしまい込むのはやめて、全部使い切ってしまえばよかった。今度生まれ変わったら、形に残らない愛や日常の尊さをもっと深く味わいたい。
そんなことを妄想しているうちに身体も心も空っぽになっている。天国は自由だし、ずっとここにいるのも悪くない。けれど、人間というのは欲深い生き物で1時間も経つと天国の自由に飽きてくる。目標もなければ未来もない、生きていた頃を振り返るだけなんてなんだかつまらない。
生きているからこそ、チャレンジしたり、執着したり、楽しんだり、葛藤したりすることができる。きっとそこに意味がある。
一生懸命生きれたな、楽しかったな、思い残すことなく人生をやりきれたな、そう思えたらそれで満点だし、実はそれが一番難しいことなんじゃないだろうか。
これ以上はもう頑張れない。そう思ったときには天国に行ってみる。ただぼんやりとお湯につかって、それまでの人生を振り返る。終わったはずの人生を思い返すとまだまだやりたいことがあったのだと思い知らされる。まだ終わりにしたくないという希望が心の底にあると気づく。
本当はどんな風に生きたかったんだろう。どんなことをやり残してきたんだろう。空っぽになると自然と五感が研ぎ澄まされ、自分の内側から自然と気力が湧いてくる。
一度きりの人生。心が行きたいと願う場所に自分を連れて行ってあげられるように、与えられた身体のメンテナンスを丁寧にやろう。
容姿や年齢にこだわることより、心地よく歩み続けることが大切だ。特別じゃなくてもいい。どんなに平凡でも私の歩いた道がきっとマイウェイになる。
やっぱり私は私の人生を生きたい! そう思えたら天国から戻る時間だ。身体も心もリセットされてなんだか軽くなっている。
生き返ることを選んだ人たちのために、番台の下の冷蔵庫には冷たい飲み物が並んでいる。芯から温まった身体に冷たいコーヒー牛乳を一気に流し込めば、人生の軌道修正と燃料補給は完了だ。
銭湯ののれんをくぐって外に出ると初夏の涼しい風が私を包む。
あ〜生き返った~!
深く息を吸い込んで、また新しい私の人生が始まる。まだ間に合う! 私の人生はまだまだこれからだ! 天国からの帰り道はいつも希望に満ちている。