非思考型AI製造工場
小学校の頃、性格診断テストなるものを学校で数回受けさせられた記憶があります。
判定は五角形のレーダーチャート式で手元に返却されたはずですが、毎回綺麗な満点の五角形に仕上がったシートを私は受け取っていました。
それは設問に対してどの答えが正解なのかを知っていたからです。ここで言う正解とは、大人が判断する「良い子」という意味での答えです。今思えば性格を大人の勝手な判断基準で定めた採点方法によりレーダーチャート化して子供とその保護者に突きつけるというのは、何とも無意味で恐ろしい話だと思うのですが、当時は綺麗な五角形を見てホッとして、親にも安心して見せられるなと思っていた自分がいました。私は何の問題もない子供という判定を受けましたよ、と。
ここまで読んで既にお気付きかとは思いますが、この時点で当時の私は「問題しかない子供」な訳です。しかし大人たちはこの結果に満足し、私を「性格の良い子」と評価します。歪んだレーダーチャートを受け取った子の数千倍も、性格や思考回路に問題があるということは明らかなのにも関わらず、です。
大人って残念なアホなんだなと、子供心に確信していました。
そしてこの社会は、こういう風に取り繕っておけば良い人間だと判断され、本心などどうでもいいのだという思考回路がどんどん膨れ上がっていったのです。
日本の学校教育によって培われたこの「良い子」像は、先生という判断基準に誉められることによって助長され、社会に出てからもその場の空気を読み切ることだけで成立する生き方しか出来なくなります。ことなかれ主義の権化のような大人の完成です。
私はこのことに、日本以外の国で教育を受けて育った人たちに出会ったり、異なる常識を見聞きしたりすることによって気がつくことができました。ある時はたと、今の自分やこれまで正しいと思ってきた何かや、それを養ってきた土台となる教育のあり方に、違和感を覚えたのです。じわりと染みのように広がったその違和感はぐりぐりとこびりついて離れず、自分自身の生き方への疑問や、判断基準としてきた常識への疑いに繋がりました。
そして社会が求める正しい人間像、つまりは扱いやすく役に立つ人間像に、自分自身の心が侵食されていたことに気がついたのです。理想像をインプットしたAI人間を教育という正しそうに見える場所で複製していき、国家にとって都合の良い駒を次から次へと社会に送り込む。その歯車にがっちり組み込まれながら成長してきた私は、どんどんAI化していく自分自身を止めたくとも、長年の思い込みや習慣を一つ一つ見直し、気付き、訂正していかねばならず、簡単ではありませんでした。
せっせとお国の発展のために役に立つ働き蟻を量産しているのが日本の教育だったことに気がついた時には、やや呆然としたものです。私は一体これまで何を信じて、何をしてきたのだろうかと。従順なAI製造工場だった学校制度の中で得意気になり、成績優秀であることが全てだと思っていた自分自身を思い出し、つまりは30代までを棒に振ってしまったように感じたのです。
しかし今の時代には、希望が見えています。もちろん私と同じ世代や先輩世代に、同じように気がつき、変わらなければならないと感じて、広い視野で判断し始めている人たちも増えているとは思いますが、何よりも10代20代の若い世代が、確実に変わり始めているのです。技術の発展に伴いこのコロナ禍にありながらも瞬時に世界と繋がり、様々な国の先輩たちや同年代の人たちに多くの勇気をもらい、若い世代自らの力で変わろうとしているのです。子供だから何をやっても無力だと諦めるのではなく、自分達にもできることを、自分たちで考えて、実際に行動する。私たち世代が10代だった頃には簡単に大人に揉み消され、その芽を悉く摘み取られていたような話も、今は行動によって広げられる可能性があるのだと、様々なニュースを読んでいて実感します。若い世代の主張に刺激をもらい、学ばされることは非常に多いです。年齢や国籍や性別に縛られることなく、あらゆる境を超えて今と向き合い、世界をより良い方向へ導くことができる社会になることを切に願っています。昔の私のような使い古しのAI化した人間が社会を牛耳っているような世の中に、もう未来はないのです。