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1人の時間から自分を見つける
自分は本当は何が好きだったんだろうと考えていた時、それら全てが「1人でもできること」であることに気がついた時は、ホッとしたような驚いたような不思議な気持ちになった。
美術館やギャラリーでのアート展示をゆっくりみて回ること。
図書館に本を借りに行くこと。家でゆっくり本を読むこと。
疲れたら自分のタイミングでカフェで座ってコーヒー休憩にすること。
ご飯を食べたくなかったら時間に関係なく食べないで済ませてもいいこと。
自分のリズムで1日を過ごせること。
誰かとランチを食べに行ったり、待ち合わせをしてどこかに出かけたりするのも、嫌いなわけではない。けれど人との時間が多くなると、自分の心と体に不調が現れることがわかってきた私は、44歳になって、ペース配分を見直すことにした。
会いたい人は、本当はたくさんいる。
その人たちは日本にいなかったりもする。それでも別の国にまで会いに行く価値があると感じている人たちばかりだ。
けれども私の持っている体力、時間、心の許容量などには、限りがある。正確に言えば、すべての機会をベストなものにしようと思ったら、時間体力精神力に限りがあることを認識して配分すべきだ、ということだ。
人生の中で、たくさんの魅力的な人たちに会って、良い関係を築いていきたいと願っている自分もいる。それでも、自分の心と体を顧みたときに、できることは限られていると感じ、それをもどかしく思い、ままならないと焦ったく思う。20代だったら、そんなことはなかったのだろうか。今と20年前の過ごし方は全く違うし、社会も全く違うから比べようもないのだけれど。
自分に正直な表現をし続けたいと思った時、まずは自分を大切にすることもやらねばならないと気がついた。私はこれまでおそらく、自分で自分を騙しながら、無理を強いていた部分があったのだ。しかしそんな無理しない生活なんで不可能だろう、というのも理解できる。現代社会は厳しい。
そんな時に忽那汐里さんのインタビュー動画を見た。
彼女の言っている意味が、私には手に取るようにわかる。
14歳からどんな制限の中で働いてきたのか、それは守られているからこその部分もあり、本人たちとしても理解はしているはずなのだけれど、何かがずれ始めてしまうと、方針の不一致から綻びが生じ始める。誰が悪いわけでも、会社が、社会が悪いわけでもない。ただ、自分の心の声と、その時周りに存在したものの、ズレがどんどん大きくなってしまっただけなのだと思う。
いろんなことを自分に経験させてあげたいという考えを述べている忽那さんに、とても共感した。今の私は若くてキラキラした忽那さんがいう「いろんなこと」とは少し違うものに目が向いているかもしれないけれど、彼女の言っていることひとつひとつが胸に残り、そして「そういうことだな」と深く頷いた。
私はここまで歩いてきてみて、まだ輪郭はぼやけている部分もあるが、「こう在りたい」という像が見え始めてきている。44歳で見え始めるんじゃ遅いよ、と思われるかもしれないが、私は不器用で、自分を理解するのにこれくらいの時間がかかってしまった。
社会の大部分のニーズにすり寄って合わせていくことをやめようとした時、一時的に進べき灯台を見失うことがある。それまで簡単に見えていた灯台に対して「違うよ、そっちじゃ無いよ」と心が言い始めてしまった時、では次の灯台はどこにあるのかと探すまでに、少し時間がかかる。この期間はとても怖く、過去の灯台に向かうことに戻りたくなってしまう。それは簡単に見つけられるし、そこへの向かい方もすでに十分知っているから。
新しい灯台を見つけようとした時、古い灯台を自分にとっての完全に不要な目印とできるまでに模索する時間は、とても不安で怖くて崩れやすそうに感じる。
私がどう在りたいかを考えていたときに、試してみた方法は、ひたすら好きなことを箇条書きにしていくことだった。アプリなどを使ってフリーの画像を集めてみるのもいい。
ヴィジョンボードという方法もある。検索するとすぐに方法が出てくるので興味がある方は調べてみてほしいのだが、自分の好きな画像や夢の生活などの画像をコルクボードにピン留めして目につくところに貼っておくという方法だ。いわゆる脳への擦り込みである。
どんなふうに生きたいです、とはっきり短い一文にして述べられる人は、多くないかもしれない。迷って、気持ちが変わって、揺れているのが通常なようにも思う。
それでも、好きなことを気軽な気持ちで集めていくと、ある日突然、ふっと方向性が見えてくることがある。明らかに右は違うな、左だな、と判断できることもある。
自分らしさを見つけることは、実は難しいことなのかもしれない。人は社会の中で生きていて、自分自身を柔軟に捻じ曲げながら社会に適応しなければ生き残れないのではないかという恐怖感と毎日闘っている。
阿らない生き方というのは、自分勝手に、好き勝手に生きている我儘な奴のやることだと捉えることもできるかもしれないが、実際には自分自身と闘い続けるしかない厳しい道とも言える。自由であるというのは、己に問い続ける生き方でもある。選択した以上、その問答から一生逃れることはできない。
私はいつも、1人の時間に新しい発見をすることが多い。誰かと会って刺激をもらっても、その時には外的な何かに対応することで一杯一杯だ。帰宅し、1人で心を沈めた時に、良いインスピレーションに出会える。誰か他人と一緒に過ごしている時に閃くことはほぼ無い。
外の世界と関わって、人と関わって、そして1人に戻って熟考する。私はそれを繰り返して生きている。
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