いつか死んでいく私たちへ
海外在住の知人の話によれば、今年、彼の友達が尊厳死を選んで亡くなったそうだ。死ぬ日が決まっていて、そしてそれが実行されて亡くなるということを知る経験は、とても不思議な感覚がするものだったらしい。
どんなにひどい危篤状態になったとしても、ある人が亡くなる日時がズバリこの時であることを、完璧に知ることは困難だ。生まれてくる日も、予定日というのはあるものの、何月何日の何時に生まれるだなんて、生まれてみるまで誰にもわからない。生も死も、人間のあずかり知らぬ部分で粛々と進行する。
私はわかりやすい形式としては女優やタレントやナレーターのような職業なのだけれど、それはあくまでも業務内容としての文字列であって、果たして私は一体何をする人なのだろうかと考えた時に、なぜか生死について想いを巡らせることになってしまった。
結局私は、何をしようとして生まれてきて、そして今も生きているんだろう。
記憶を掘り起こしながら、核となる部分、私の行動に共通する芯の部分を探す。
例えば私はここに文章を書く必要があるのだろうか、ということ追求してみる。
最初は理由もわからず手探りの試行錯誤ではあったものの、今では「書く必要がある」と感じるから書いている。それは内容が特別に誰かの役に立つライフハックだからということでもなく、読んだ人に利益を齎す何かだからという明確な目的がある記事だからということでもない。
それでも「書くしかない」と思っているのは、まるで1977年、今から47年も前に地球を出発したボイジャー1号と2号に積まれたゴールデンレコードに当時の人々が込めた想いに近い何かがあるように感じている。
宇宙を旅し続けるボイジャーに積まれたゴールデンレコードは、いるかどうかも定かではない宇宙人へのメッセージである。宇宙人、と言ってもそれが漫画や映画に出てくるような人型である保証はない。アメーバのような何かかもしれないし、人間の目からみたら透明にしか感知できない何かかもしれないのだが、とにかく宇宙人という地球外生命体を想像して、そこにもしも届いたのならという希望とともに作られたのがゴールデンレコードなのだ。
もしかしたらいつか、本当にどこかの宇宙の何かに、ゴールデンレコードが発見される時が来るのかもしれない。この世の終わりになっても、発見されず、ボイジャーもどうなったか誰も知らないままになるかもしれない。
どうなるのかは、誰にもわからない。それでもゴールデンレコードは存在し、今も宇宙を進み続けている。
私たちはいつか死ぬ。ボイジャーの旅もおそらく永遠ではない。
それでも進むことをやめてしまわないのは、「見果てぬ先を知り続け、まだ見ぬ誰かに会うかもしれない」とわずかでも信じているからなのだろう。私もボイジャーも行けるところまで行くしかない。
文章を書くことについて言えば、マーケティングの考えからすると、どんなターゲットに向けて内容を発信するのかよく考えて、ニーズに合ったものを書かなければ、アクセス数は稼げませんよという話なのだろう。それは理解はできるけれども、どうにもうまくできる気がしない。
私は「いつかどこかにいる、これを必要としている人に届きますように」とだけ思っている。
私は「あの日の自分に、このメッセージが届きますように」と未来の地点から思っている。
私は何百年も前の哲学者の思想から勇気をもらい、何年も前の随筆や小説から心に栄養を補給している。それらが書かれた時に2024年の日本にいる私という一人の人に、強いメッセージが伝わるとは、書いた人は思っていなかっただろう。
いつかの誰かの気持ちに寄り添えたなら、あの日の過去の自分に伝えられたなら、良いかもしれないなとは思っているけれど、最終的にはそんなこともすっかり考えずに、それでもなぜだか書かなくてはという熱だけで書き続けている。
私にはボイジャーに乗っているゴールデンレコードが非生産的で無意味なものであるとは全く思えない。なぜならそれが発生した以上、必ずどこかにそれを必要とする何かが存在するからだ。
いつか私は死ぬ、いつかあなたも死ぬ。誰もがいつか終わりの日を迎える。どんな形であっても必ずやってくるその日を完璧に避けることはできない。
あまりにも不確定な要素が多い人間の一生の中で、あまりにも不確定な相手に対して、何かを書き続けることは、現代社会における「正しい発信方法」のどれにも合致しないものである。
誰も当てられない日時に生まれてきた私は、誰も予言できない人生最後の日に向かって、毎日死にゆく時間を歩く。
私は今日も「普段家で何をしているの?」という質問に困ってしまったのだが、暇を持て余しているわけでも、のんびりしているわけでもなく、実際のところ非常に忙しい。しかし何をしているかと問われると答えるのが突然難しく感じられたのだが、ここまで考えてようやく少しわかってきた。
私はいつか死んでいく私に向かって、あらゆる手段でメッセージを残し続けている。それを今日も全力でしていたのです、というのが答えなのだが、そんなことを言ったところで、全く伝わる予感はしない。
死にゆく私(個人)への言葉はつまり、死にゆく私たち(複数人)への言葉でもある。
誰かへの言葉は自分への言葉になり、自分へのメッセージは誰かへ届けるものになる。
いつか死んでいく私たちへ。
大切そうなカケラを集めて、今日もある引き出しにしまったり、封筒に入れて投函したり、宇宙のクラウドに投げ飛ばしたりして、つまり今日も私は忙しい。