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不便で不利な状況が人生の濃度を上げる

今暮らしている地域は、もともと昔は小さな村があった場所で、地域の歴史は長く、周辺の家々は100年を超えて代々ここに住み続けているようなお宅も多い場所だ。朝も昼も夜も、とても静かで、日が暮れたあとは窓から漏れる電気がなければ、誰も暮らしていないんじゃないかと思うような静けさがある。一番近いコンビニまではちょっとしたハイキングレベルの坂を頑張って往復しなければいけないし、スーパーなんて40分以上歩かなければ着かない。それでも、この静けさを味わうとき、本当にここに暮らすことができてよかったと思う。

もしかしたら、これからの時代は、賑やかなものよりも、静かな何かを求める人が増えていくかもしれない。もちろん騒々しい賑やかさが消えることはないだろうし、そういうものが大好きな人たちもある一定数はいるだろうとは思うのだが、昔はマイナーキャラだった静かなことが好きな人たちというのが、ついにメジャーに浮上する時代が来たのかもしれない。

「ソロ活」や「おひとり様何々」という言葉が流行ったということは、それがレアで面白い物だったということなのだろう。しかしもはや一人静かに何かをすることは、全く珍しいことではなくなるような予感もしている。むしろ今度は逆に、大人数で何かをすることに対して流行のキャッチフレーズが命名されることになるのではなかろうか。

駅前のスーパーまで買い出しにいくと、観光地のど真ん中ということもあり、連れ立ってランチやカフェを楽しんでいる人たちをよく見かける。けれどもそんな中で、一人静かにランチを食べたり、コーヒーを飲んだり、クレープやお団子の食べ歩きをしている人もいて、しかもそれは特段レアな状況でもない。時代は変わったんだなと感じる。

もちろんそんな私だって、誰かとランチミーティングのために飲食店で美味しく食べながら会話をすることだってあるし、カフェで待ち合わせをすることもある。それでも、最近は、そんな機会を以前よりも減らして行こうとも思っている。本当に大切な人、本当に大切な用事の時にだけ、そういう集いの機会を設けるけれど、重要度があまり高くない件については、なるべく避けてもいいのではないかと思うようになった。
私は私自身のことをもっと大切にしていきたいし、本当に大切な誰かをもっと大切にしていきたい。まずは自分のことをきちんと大切にして労った暮らしをしていなければ、肝心の時に大切な誰かに対して本当に大切に接することができないのだ。そのためには、やはり取捨選択は非常に重要で、ポイントをしっかり押さえながら考えて行動せねばならない。さもないと、あっという間に外的騒音と内的騒音に両方から押しつぶされてしまう。

一見マイナスな要因であること、例えば一般的な基準から言えば不便な場所に住んでいることや、年齢とともに体力に余力がなくなってきていることなどは、実は人生を大切にするために重要な原動力になってくれているのかもしれない。時間も体力もその他諸々も、余りある物ではなくなってくると、重要なことへの焦点を定めざるを得なくなり、結果的に自分と向き合い、重要なことは何かについて再点検することになる。そんな理由でもなければ、あれもこれもと欲張ってしまい、結局広く浅く、薄いものしか得られないままなのだ。

少しだけ不便であることがもたらすメリットは、実は想像以上に大きい。

温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。