嫌なシーンに遭遇した時はサインと気付く
先日、古書店に行った際、ご高齢の男性が立ち読みをしていた。その日はなぜか店内が賑わっていて、同じ書棚の通路には4人ほどのお客さんがいた。私は奥の方の本棚が見たくて、なんとなくその高齢の男性のそばを通ろうと思えなくてあえて隣の書棚の列を通りながら遠回りして目的の棚まで進んだら、その高齢の男性が近くにいた女性に対して声を上げた。「邪魔なんだよ、あっち行って」と。その20代らしき女性は隣で本棚を見て、買いたい本を手に選んでいたようなのだが、高齢の男性と20代らしき女性が私が店内に来る前にどんな位置関係でどれくらいの時間をそこにいたのかはわからない。しかし私は男性の悪意に満ちてイライラが最強に詰め込まれた言葉を聞いてしまい、自分に言われたわけでもないのに、心がざわざわと波立って、本を見ていられずに店を出てしまった。
心臓がドキドキバクバクとしながら、次の買い物の目的地へと歩く。私は人が言い争っている声が苦手だ。何かを強く主張しているような声も苦手だ。心が瞬時にざわつき、落ち着かなくなり、心拍数が上がってしまう。もし今近所でなんとか一揆のような動乱が起きたら、その活動に全く関与していなかったとしても、心臓のざわつきだけで倒れてしまえる自信がある。政治には興味があるが政治家が声高に主張しているのを見続けられない。どんなに素晴らしいことをおっしゃっていてても、内容が全く頭に入ってこないほど、あの強いエネルギーに精神の奥の方がダメージを被ってしまう。政治主張やニュースは、できるだけ淡々とした書き方の文字で読むことにしている。
さて、古書店を出た私は外を歩きながら考えた。なぜ私は、先ほどの高齢の男性が罵詈雑言を発するシーンに遭遇してしまったのだろうか。少しタイミングがずれていれば出会わなかったはずのことだった。しかし私はバッチリと遭遇した。つまりこれは、私の在り方の問題である確率が高い。
自分が好まない出来事に遭遇した時は、自分の状態を見直すチャンスでもある。他人事を通して自分を見つめ直すきっかけをもらえるのだから、これは大変お得な話である。
この時私は少し疲れていて、自分ではどうすることもできないという「暑い」という事実に苛立ってもいた。生まれつき寒いことに慣れていて寒さが大得意な私は、「暑いし湿度も高くて、もう暑くて良いことなんて何一つない!」と極端に思っていた私は、その日ついに目の前にそんな怖い出来事を展開させられてしまったのである。
世の中には色々な出来事があり、色々な人が生活している。穏やかな出来事もあれば、喧嘩もある。無言でイライラしている人もいれば、怒鳴り散らす人もいる。そして自分とは別のその存在そのものを消し去ることはできない。しかし、この広い世界、ゲーム画面に流れてくる障害物を避けてスイスイ前に進むが如く、自分が好まない出来事が自分になるべく当たらないように進むことくらいはできるのではないだろうか。
そう考えてみるようになってから、私は日常的に利用する店や場所を注意深く選ぶようになった。日常の買い物で必要なスーパーマーケット。もちろん価格が抑えられているお店を賢く活用することは重要だが、値段と同じくらい重要な店選びのポイントが私にはある。その店に行く時間帯や曜日や店ごとの違いによって、なんとなく集まってくる人たちの空気感は異なっている。値段が高めの設定の店だからといって、行く曜日や時間帯を間違えると、店内にイライラした空気感が多いこともある。人間一人でその場の空気を変えることは難しくても、同じような空気を纏った人が複数人集まってしまうと場の空気が変わってしまう。人の滞在時間が長くなりやすいカフェなども同じだ。同名のチェーン店でも店舗によってかなり空気が異なると感じたことはないだろうか。味もメニューも全く同じなのに。
結局、今の自分に似合うものしか出会うことができないというのが、この世の理なのかもしれない。どんなに仲良くしていた友達でも、ある時急に会えなくなることがある。お互い予定を合わせようとしても、どういうわけか毎回予定が合わず、やっと予定があったとしても直前で急なことが起こってやっぱりキャンセル、なんてこともある。「縁がない」とは的確な日本語だと思うのだが、これはもう「縁がない」としか言いようがない。人ではなくても、場所でも同じことが言え、どうしても辿り着けない場所があれば、意図せずあれよあれよという間に辿り着いてしまう場所もある。
「縁」と言ってしまうと見えない何かに操られているようなイメージを持つかもしれないが、実は大部分が「自分自身が今どのような状態であるのか」が大元となっているように思う。もちろん人知を超えた「縁」というものもあるにはあるのだが。
この日歩きながら私は思った。
暑い。暑くてイライラする。暑くて本当に無理。暑いだけじゃなくて、ジメジメしている。「高温多湿」っていうのは中学校の地理の東南アジアの気候の特徴のところで解答欄に書くワードではなかったのか。日本に住んでいるアメリカ人の友達がいうように、ここ数年、毎年毎年暑さと湿度が酷くなってきているというのもまた事実だと私も思う。去年は10月になっても長袖が着られないような暑さで流石に叫んでいた。街に溢れるハロウィンのディスプレイのオレンジ色が暑苦しい!と。北方DNAの私が暑いのを好きになることは、今世はほぼ不可能だろう。けれどこのままではいけない。また怖いことが自分の前で起きてしまう。怒鳴っていた高齢の男性ももしかしたら冬はそんなひどい言葉を他人に投げつけるような人ではなく、とても穏やかなのかもしれない。夏のせいでイライラしている私と全く同じ何かを心に持っていたのかもしれない。
つまり、私は夏の暑さに対してイライラするのを辞めなければならない。どうしよう、できる気がない。しかしやるしかない。
家にはエアコンがあり、シャワーからはぬるい水が出る。冷蔵庫も冷凍庫もある。扇風機もある。私はまずは、自分のことを存分に冷やしていられる環境に置き、冷えている状態にいつもの数倍感謝しながら、心の奥底まで自分を冷やせることを堪能してみることにした。ちょっと贅沢をしてエアコンの設定温度を28度から27度にしてみる。同時に扇風機の風速を少しアップして首振り運転をやめ、体の近くに置いて真っ向から当てる。冷風を全身に浴びて、寒いなと思うまで冷やしてみることにする。案の定残念ながら寒いなと思うことはない(私は冬でも寒いなと思えることが少ない。寒いと思えなさ過ぎてついにダウンコートを手放したが全く問題はない。ちなみにここは海沿いの関東。)のだが、冷やしている行為そのものに意識的に感謝をすると、心が穏やかになってきた。ああ、たったこれだけのことでも自分の心を変えることができるのだ。目の前に起きている外部のことを変えるのではなく、どうしたら自分の心が良い方に変われるのかをまず最優先で考える。日本の夏の酷さに辟易している件のアメリカ人の友達はこの夏を最後に日本を去ることを決めた。それもまた自分の心を穏やかに保つための手段の一つだと思う。方法は色々ある。今すぐできることも、ちょっと頑張らないとできないこともある。
私が思う、今すぐできる方法は、手元にある材料だけを使って最大限に感謝を感じることだ。「手元にある材料だけを使って」というのがなかなかゲームっぽくて面白い。人によってそれは違うだろう。お金と時間に余裕があるから今すぐネットでチケットを取って24時間以内に国際空港に到着し冬の南半球に2ヶ月くらい行ってみようというのが「手元にある材料」で最大に感謝を感じられる方法な人もいると思うし、夏休みの計画を変更して遊びに行く先を入れる川にして、子供のようにドボンと川に浸ってみよう、という人もいるかもしれない。バケツに水を汲んで氷水にしてそれに足湯ならぬ足水をしてみるかもしれないし、私のようにもう夏が終わるまでお湯のシャワーはやめて毎日水浴びにしようと思う人もいるかもしれない(水浴び最高)。
とにかく何でもいいので、今すぐ自分の機嫌をアップさせてあげられる工夫をするのである。この効果は絶大である。自分も楽しくなって嫌な球も投げつけられなくなるという一石二鳥の方法。それでもまだ嫌なことが降ってくるという人は、自分のご機嫌取りが足りない。私は食べ物では幸福を感じられないタチなのだが、美味しいものを食べるというのも良い方法だと思うし、好きな映像を見たり音楽を聴いたりというのでもいい。私は一時期仕事前のヘアメイクをしている時には必ず好きな心地よいと感じる音楽を聴くようにしていたことがある。この方法もなかなか侮れず、良かった。
そしてこの手段は多ければ多いほど良い。自分を育成するゲームをしているかの如く、「この目の前の生き物の機嫌をアップするアイテム」というのをストックしておき、ゲーム内であれこれ与えてみるようなものだ。自分育成ゲーム。面倒臭いが面白い。