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私たちは特別になりたいくせにステルスでもありたいのだ
人は自分の視点から見たものしか認識できないし、判断もできない。他人の目線になり変わることは不可能であり、それはギリギリまで想像してみる他ないもので、同じ色、同じ形を見ているかどうかは、最後の最後まで分からずじまいである。
他人を理解したいと思う時、それは諦めるしかない部分の究極であり、事実であるからこそ少し寂しい気持ちにもなる。誰かに寄り添って深く理解しているつもりでも、それはどこまで行っても「つもり」でしかない。
『むらさきのスカートの女』は芥川賞を受賞した今村夏子さんの小説である。最近ようやく読んだ。
タイトルにある「むらさきのスカートの女」を執拗に観測する「黄色いカーディガンの女」が、この物語を進行する。視点は常に「黄色いカーディガンの女」であり、日記のようでもあり、独白のようでもあるこの小説は、淡々としながらも実にカラフルである。「むらさき」「黄色」という読者にはっきりと色を想像させるような言葉が散りばめられているせいなのか、執着とも取れる描写に狂気を感じるせいなのか、物語は終始実に鮮やかだ。感動的な展開やドキドキハラハラさせる煽るような口調は見られないにも関わらず、映画を見ているように錯覚させるようなこの文章は、思わず「いつか画面上で全くピントも合わず肩越しや背中にしかフレームインしない黄色いカーディガンの女を演じてみたい」と思わせるような魅力に溢れていた。
社会にぐるぐると巻き込まれながらどうにか毎日を立っている現代人の表現は絶妙である。
違う。思い出した。今度こそわかった。むらさきのスカートの女は前に住んでいた町のスーパーのレジの女の人に似ているんだった。わたしがすごくしんどかった時、ふらつきながらおつりを受け取ったら、「大丈夫?」といきなり声をかけてきた人。次の日行ったら今度は「まいど」と言った人。おかげでその次の日からは行けなくなった。
わかる。この感じ。わかりすぎる。
「むらさきのスカートの女」にも「黄色いカーディガンの女」にも、どこか自分に似ている部分があり、どこか全然違う他人のようでもある。そして「黄色いカーディガンの女」が「むらさきのスカートの女」のことを、過去に出会った誰かに似ているような気がすると、あの人かこの人かと記憶をひっくり返す。二人とも、現代人の持つ要素をそれぞれ少しずつ寄せ集めたような、誰かのような誰でもないような、現代的アノニマスな存在である。
それにしても、久しぶりにすごい描写の文章を読んだ。いわゆる文学賞の受賞作というのを読んでも、悪くはないけれど特段驚きもしなかったんだけれど、まあそんなもんなんだろうな、という感想を抱くことが多いのだが、これは芥川龍之介賞なんだなと納得させられた。すごかった。
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