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自分のことを否定する悪魔をどうするか

近頃特に「世間一般」という言葉ほど恐ろしいものはないと思っている。いわゆる「普通」である。人は誰しも「特別」でありたいと願いながら、「普通」の範囲からはみ出して糾弾されることを恐れている。同調圧力の強い社会で成長した人は特に、周りと違ってしまうことに危機感を覚え、なんとか目立たないように取り繕おうとする。小さい頃は突出した特別感が異常分子と見做され、いじめにつながり、つまりは集団での生存が危うくなる。穏やかに集団生活をやり過ごすためには、「特別」への渇望を手放し、「突出」への危険を回避しながら、「普通」の中に潜むのが手っ取り早い。

「世間一般」に潜伏し、ステルスの隠れ蓑を纏いながら生きている時間が長ければ長いほど、本当は自分はどう生きたかったのかと悩んだ時に困り果ててしまう。

KIKOさんの『「風の時代」は好きなことで稼ぐ』(KADOKAWA)を読んでいたら「好きなことが見つからない場合は」という章が出てきた。

好きなことがわからないのは、「嫌いなことをしすぎて、エネルギーが不足しているから」です。好きなことを思い描くのにもエネルギーがいるので、充電が足りないと本音がわからなくなってしまうのです。

『「風の時代」は好きなことで稼ぐ』KIKO著(KADOKAWA)p.56


これは同調圧力社会に長年浸り、「世間一般」であることが染みついた体には、本当にわかりやすい説明で、あまりにも他人軸で過ごす時間が長いと、いざ「自由にしていいよ」と言われてもどうしたらいいか困り果てるのだ。私も身に覚えがありすぎて、切実に感じる。

KIKOさんのこの本はタイトルからしてもスピリチュアル系どっぷりの本のようにも読めるのだが、実は「世間一般」という名の悪魔の巣窟から逃れる方法が分からずにもがいている時に役立つ話が満載な一冊だった。スピリチュアル本によくある「ブロック」の話や「守護霊」の話ももちろん出てくるのだが、ここに書かれている本質は現代社会におもねり過ぎた結果、自分を取り戻せなくなってしまった人たちが自分らしさを思い出すためのヒントである。目には見えないものを一切信用しないとしても、自分を受け入れながら楽しく生きていくための方法が散りばめられている。

さらに最近思うのは、自分の生き方や自分らしい個性について否定してしまっている最大要因は、実は他人からの圧力ではなく、自分自身の思考だということだ。自分が自分を否定しているのである。自分で勝手に自分を「世間一般」の枠に押し込め、監視し、その中だけで解決しようとしている。「こんなことをしたら、世間からどう思われるだろう」「普通の20代はこんな感じじゃないよね」「普通の40代はこういう生活なんじゃないだろうか」CMで流れる家族像に自分自身を当てはめようとしてもどうしても当てはまらない時、同年代の人たちの考え方や暮らしと自分が違うと感じている時、自分の生き方や考えを周りに言うのが怖いと感じている時、自分で自分を否定しているのだ。

自由に行きたいと思い模索してきた私ですら「所詮他人事なんだから、どうだっていいじゃない」と言い切れるようになるまで、随分と時間を要したように思う。どんなに否定されたって、自分は自分の思う理想の生き方を追求するんだ、後悔や言い訳をしないためにも自分で選んで自分で掴むんだと、何度も心に言い聞かせた。周りと違っていることに対して時に事を荒立ててエネルギーを無駄に消耗しないようにするためだけに適当にやり過ごしたり、無理に自分のあり方を相手に理解させようと躍起にならないように気をつけた。

社会で生きていく限り、周囲からの影響をゼロにすることはできない。それでも自分の生き方を否定してくる最大の悪魔は他の誰でもなく、実は自分自身の心だったのではないだろうか。本気で自分のあり方を信じることができるのなら「へー、そういう考えの人もいるんだね」「ま、私とは違う人の話だから、私は私のことをしようっと」というように、たいした問題に感じずに、遠くの巨大スクリーンに映る映画の中の話を見ているように距離を置いて観察することができるはずなのだ。常に対面すべきラスボスは、自分自身なのである。

そこまで気がつくことができたら、自分が悩んで考え抜いて出した結論に基づいた行動に、自信が持てるようになってきた。「私はこうしたい、なぜならこれが私にとっての最も幸せな在り方だから。」誰かに否定されても、その人の幸せとか考えとか理想はそうなんだね、と受け止めずにひょいと右から左へ流していく。

かのニーチェも『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で「あなたが出会う最悪の敵は、あなた自身であるだろう」という言葉を残しているようなのだが、私たちはいつも何周もした挙句にようやく先人たちの教えが心に染み込むように理解できるわけで、「読むは易し、真に理解するは難し」というところだろうか。最先端技術が跋扈する現代において、今こそ古典を再度精読するべき時かもしれないと『スッタニパータ』を読んだ時にも感じたことを思い出した。




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