リアルとファンタジーを考える “YOU &エリトリア”展
2024年5月22日から6月9日まで、港区立郷土歴史館の4階ギャラリーにて港区とエリトリア大使館と楠哲也の共催の展覧会 “YOU & エリトリア”展が開催されている。
エリトリアという国をご存知だろうか。
アフリカ大陸にある国家で、紅海に面した国土を持ち、隣接する国は日本でも知名度の高い国としてはエチオピアがある。
この度の港区立郷土歴史館での展覧会 “YOU & エリトリア” は、過去2度にわたりエリトリア大使館からの依頼で楠哲也が撮影したエリトリアの写真を使ったインスタレーション展示コーナーと、エリトリアという国の紹介コーナーという2つのブロックから構成されている。
多くのステレオタイプなイメージに洗脳されがちなアフリカの国々。しかもその中でも多くの日本人が「エリトリアってどこにあるの?」と言う反応を示す国。これら二つの要素が示すことは、多くの人にとって「他人事」としてのエリトリアが存在しているということだ。「他人事」と言うと「無責任」だとか「冷たい」とか「無関心」だとか、ともするとマイナスなイメージと結びつく単語に聞こえてしまうが、ここでは良くも悪くもない、単に自分のリアルな生活とは関与しようがないことが原因となる「他人事」という意味合いで使うこととする。
そんな「他人事」として認識されがちなエリトリアを、どうやったら「自分事」として考えることになるのだろうかと思索したことから楠哲也の今回のインスタレーション展示が生まれた。
楠がエリトリアという国に関与することになったのは、今から約15年前。
2度のエリトリアへの撮影渡航以外にも、彼が “My African Dad”と呼ぶ在日エリトリア大使との交流は続き、毎年のエリトリア大使館発行のカレンダーや大使館ウェブサイト、大使館による広報発行物への楠の写真の使用を通して大使館職員とも連絡をとり続けてきた楠にとって、エリトリアという国は単なる仕事で行ったことがある国というものをはるかに超えた存在になっている。在日エリトリア大使と実際に対面して会話をした回数は冷静に振り返れば決して多いとは言えないのだが、その数を超えたものが楠の中には確実に存在し、2023年に出版された写真集『Eritrea』は、過去の写真を散りばめたタイトルの通りのエリトリアという国の写真集のように見えなくもないのだが、実のところは在日エリトリア大使への感謝の気持ちから始まった楠の極めて個人的なプロジェクトとしての写真集だった。
楠にとっては、もはや「自分事」でしかないエリトリアという国について、自分が正直に提示をするならば、客観的なアフリカの国紹介のような展示になることは、もはや不可能なのではないかと考え、さらには自分にとっての「自分事」つまりリアリティとは何かを考えた。その結果、既存の写真展という概念に囚われない展示方法にすることで、鑑賞者それぞれが、目の前にあるエリトリアの一部は自分にとってリアルなのかどうかを考えるきっかけになるような展示に挑戦することとなった。
通常の写真展の場合、写真は見やすいように壁に掲げられ、「作品に手を触れないでください」などの注意書きがされ、鑑賞者はある一定の距離を保って2次元にプリントされた写真を鑑賞する。
今回楠はインスタレーション展示にて、その既存の写真鑑賞方法をあえて全て不採用とした。楠にとって自分のプリント作品を手で触ることは通常の行為でありリアルな行為である。しかし多くの鑑賞者にとって、それは異なるだろうと考えた楠は、今回写真を額装した状態の白枠20フレームを積み重ねるようにして展示した。これらは鑑賞者がフレームを触って自由に移動させながら鑑賞できる仕組みになっており、固定などはされていない。
また、会場にある黒板を活用した部分にはプリントを直接マグネットやテープで貼り付けている。こちらもプリントに直接触れることも可能だ。
さらに写真が持つ2次元と、現実世界が持つ3次元というそれぞれの特徴を改めて考えたときに、すでに2次元として完成された写真集という本の紙を3次元に再構成することができたら、それは作家本人や鑑賞者にとって3次元つまり現実、リアリティとして再構成されるのだろうかという実験的提示のために作られた、写真集『Eritrea』を立体化した作品がある。
この立体化作品は短い動画作品にもまとめられていて、Youtubeで確認できる。
撮影され、データ化され、プリントされる以前のエリトリアは、現実として撮影者である楠の目の前に存在していたはずのものである。もしも3次元がリアルであるならば、写真になった時点でそれは2次元化され、つまりはリアルではなくなるのだろうか。平面の写真を握りしめ、積み重ね、物質が3次元になればリアルになるのだろうか。
一見して「現代美術のインスタレーション展示」として仕立て上げられているかのような今回の展示を、作家本人は「そんな大したことじゃないねん」と言う。
表現について考える時は極めて真剣に議論し考え尽くしているように見えるにも関わらず、一旦自分の手から離れていくと、その評価や他人からの酷評すらも本気で全く気にならなくなるあたりも非常に楠らしい。
現代アート、コンテンポラリーアートと呼ばれるジャンルで活躍する現代アートギャラリーの取扱作家である楠は、つまりは一般的に言えば現代アートというジャンルで自身の作品を発表することになるのだが、彼の姿勢そのものからは現代の社会における現代アートの独特なワールドというものについて、常に疑問を持ち続けているようにも見える。それは楠自身の生き方や考え方の基準にもつながる部分のようにも見受けられる。
現代アート、現代美術というのは、ある一定のルールの中で「現代アートワールドというゲーム世界に参加しますか、しませんか」という話だと考える楠は、ただ単にそのルールを上手に守ったが故にゲーム世界での立ち位置が確保されていくものに違和感を覚えている。
現代アートというワールド内でのゲームとそのルールというのは、社会が、つまり誰かが作ったルールにしか過ぎない。ゲームに参戦するならルールを知った上で、参戦して楽しめばいい。しかし必ずしも全ての人がそのゲームに参戦する必要はない。そしてゲームに参戦していないからといって無意味だとは言えない。
展示について(というよりも、もはや自分がここに存在していることから生み出されている何かそのものかもしれないと私は感じたのだが)、展示にまつわるあれこれは「自分自身のファンタジー」だと楠は述べている。
「自分自身のファンタジー」については
しかしそんな話の中でも楠はやはり楠らしく、自分の考えが絶対に正しいとは断定はせず、何でも良いと思うところに着地する。
そして今回の展示のインストールを終えてみて、率直な感想として出てきたものは、意外なものだった。
現代アーティストとしての展示というものはこうあらねばならない、という強い何かに縛られて、そのルールに振り回されてしまいがちになり、本来の自分の思っていることそのものが何であったかを見失った本末転倒な展示に多く遭遇し、それらを見慣れてしまうと、楠の展示とその在り方には違和感や反発を覚えるかもしれない。
全ての人は自分自身のファンタジーを生きるしかないと考え、その個々のファンタジーの世界を他者が完全に理解することは不可能であると考えている楠は、今の自分のファンタジーから出てくるものしか出すことはできず、それを素直にアウトプットした結果としての作品を提示する。それが自分の意図した通りに第三者に理解されるかどうかは問題としていないし、そもそも個々のファンタジーの中から観たようにしか見えないのであるから、理解することは不可能であろうという前提もある。ただ、
と、個々のファンタジーがある中での人と人とのコミュニケーションについての考えも述べている。
先にリンクを掲載した今回の展示のための動画を見た時、現代アートのための動画作品ともどこか違うような、かといって記録映像とも呼ぶには何だか違うような、微妙な違和感を私は覚えていた。
しかしここまでの話を頭の中で整理しながら考え直してみれば、つまりあの動画は、まさに「楠のファンタジー」をできる限り直接的にアウトプットした結果として出てた映像という形、なのではないだろうか。
“YOU & エリトリア” は観る人によって感想が大きく異なるのではないかと思う。
それは楠の言葉を借りればそれぞれの個別の「ファンタジー」の世界から観た感想なのだから、違うのが当たり前なのであろう。
最後に、私個人が実はこの展示が決まったと聞いた時から思っていたことを書き記しておく。
エリトリアは日本から遠く離れた国である。そしてほとんどの人が実際に行ったことがない国もであるだろう。実際私も行ったことはない。エリトリア人に対面したことがある人も少ないだろう。私は幸い、エリトリア大使に何度かお会いしたことがあるし、大使館で働いている人や大使館内で書類申請等の都合によりいらしていたエリトリア人にも遭遇したこともあるのだが、そんな特殊な機会でもない限りエリトリア人に会うチャンスがない日本人がほとんどであろうと想像する。
しかし、大使館内というのはその国なのであることをご存知だろうか。日本にあるエリトリア大使館内はエリトリア国である。そしてエリトリア大使館は、今回の展示会場から歩いて10分以内に着くであろうほどの至近距離にある。つまり、遠い遠い国のエリトリアは、実は展示会場から歩いて簡単に行けるようなすぐそばにあるのである。なんと不思議な事実であろうか。
物理的距離が遠いから身近ではない国なのだろうか。しかし大使館の存在から考えてみれば本当は遠くて近い場所のエリトリアなのである。大使館と港区立郷土歴史館の位置関係を知って展示室に立ったならば、急にエリトリアが身近な国になるのだろうか。それともやはり自分自身が実際にエリトリアに行ったり、エリトリア人の知り合いがいたり、エリトリアが何らかの思い入れがある場所になっていないと、エリトリアは身近な国とは感じられないのだろうか。ある人にとっての身近な何かというのは、どうやって定義されるのだろう。
もし展示に行かれる機会がある方は、エリトリアは遠いけれど大使館はすぐそこ、つまりすぐそこにもエリトリアがあるよ、という事実もイメージして見ると面白いかもしれない。展示を観る前と後では、自分にとってのエリトリアという存在は、何か変わるのだろうか、変わらないのだろうか。写真を手にとって触って観ることによって、距離感は何か変わるのだろうか。エリトリアについての詳しい説明を読むことによって、何か心理的な変化が起こるのだろうか。もし何らかの変化があったとして、それはなぜ変化したのだろう。逆に何の変化もなかったとして、じゃあなぜ変化しなかったのだろう、そして何があったら自分にとってはある特定のものとの距離が変わるのだろう。これらは人それぞれ全く異なる答えが出ることと思う。
エリトリアという展示がきっかけで、それぞれが、それぞれに、ある対象との距離や感じ方について考える展示になる可能性がある提示ではないかと私は思っている。
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