アートのある生活
ここ数年でよく見かけるようになった情報に「アート」「美術鑑賞」「現代アート」などの言葉があり、つまりは「お気に入りのアート作品を買いましょう」という着地点になる記事が多いように思うのだが、そこには記事やワークショップ、そのほか諸々の企画としての目指すゴールとして「アートのある暮らしから得られる効能」を謳う場合が多い。
それはそうだろう。高いお金を出してアートを買うことを推奨する企画としては、わかりやすい効能をあの手この手で説明しないといけない。
アーティストと結婚したことで、必然的にアートのある暮らしにならざるを得なくなった私は、本棚のほとんどは画集や写真集、アート関連の書籍で埋め尽くされ、とはいえスペースにも限りがあるので、結果的に私が読み終えたアート以外の本はどんどん古書店へと旅立つことになった。本好きの私としては最初は少し手放すときに「ウッ」となったが、「読んだ本はきちんと心の本棚に収納するんだ」という気持ちを強く持つことによって、より真剣に読むようになったし、手放してもどうしても必要な時にはまた買い直そうと思えるようになったので、結果良かったのかもしれない。身軽なことは良いこと。本は重い。引越し複数回の経験から、本が一番、腰にくるのである。冷蔵庫でも洗濯機でもなく、本である。引越しのラスボスは常に本。
さて、本日のタイトルの「アートのある暮らしの効果」であるが、結論から言うと、効果は絶対にある。間違いなくある。
しかしそれはアートだから、というわけではない。
私たちが日常を過ごす空間に存在する全てのものが、私たちの何かに影響を与え続けている。毎日使う箸、毎日使うマグカップ、何気なく座る椅子、玄関のたたきの状態やキッチンのシンクの汚れ具合、全ての要素一つ一つがそこにいる人にじわりじわりと影響を与え続けている。
外出時に身につけているものや髪型は他人の目に触れやすく、それらがその人のイメージやなんらかの醸しだす物を作っていると言うのは、とてもわかりやすい。
家の中のものというのは、来客が頻繁にある家や、家の中を使って発信する表現などをしていなければ、自分を作り上げるものへの影響はないだろうと思ってしまいがちなのだが、実は違う。
かつて私は、音大生時代、まるでかの有名な漫画『のだめカンタービレ』ののだめのような暮らしをしていた。のだめの様子を漫画で見た時、全く笑えなかったし、まさにのだめだったし、そして私の周りにはのだめのような音楽科大学生がたくさんいたので、その状態になんの疑問も持たなかった。むしろ千秋先輩のような音大生がいたら、会って見たかった。その清掃のゆとりはどこからくるんですかと。家に帰ればすぐピアノを弾き、ドイツ語や英語の授業の予習復習試験勉強をし、音楽理論の勉強もしながら、教育実習なんてそんなことしている暇はないのに無理やり履修と実習をねじこみ、毎日の睡眠時間は3時間寝れればマシな方という暮らしを最低でも4年続けるのである。それは部屋も荒れるし、それについて考える余裕もない。料理なんてちょっとでも手を怪我する可能性の高いものは危険過ぎてできないし、かといって節約しなければ楽譜も演奏用衣装も買えないので激安のスーパーのお弁当や菓子パンを適当に齧りながら練習する日々。あの漫画の中でのだめはコミカルに描かれているが、あれは誇張ではなく、ああいう状態は普通に音大生あるあるなのだ。
『のだめカンタービレ』の中で千秋先輩が言う「美しい音楽は美しい部屋から」という有名なセリフは、理にかなっている。一般的には理にかなっているが、音大生だけ(もしかしたら美大生もかもしれないのだが)別なのであるのが不思議で、「美しい音楽は、24時間の中を音楽のことだけにできた分だけ生まれてくる」というのが音大生なのである。つまり実生活が蔑ろにされるほど、演奏のレベルは上がってしまう場合が多く、ちょっと人として異質な感じになっているがみんな同級生が異質な人ばかりなので何ら違和感を抱く機会もなく、そのまま突進し、結果的に就職活動をしてみたら他の学科の人とのオーラ的違和感があり過ぎて全然就職先が見つからないというのも、あるあるなのだ。
そんな特殊環境にいた私ですら、大人になった今は思う。環境が全てである。
自分の家に置いてあるもの、家の片付き度合い、家がある土地の周辺環境、着るもの、持ち物、履き物、何気なく置いたインテリア、キッチンにある浄水器、そういう全てが自分というものを作り上げている。
私がこのことに気がついたのは、たまたま、引越しの多い家庭になったからであった。
住む場所が変わればインテリアの配置も変わったり、何よりも毎日出歩く周辺環境が変わり、窓から見える景色や聞こえてくる生活音が変わる。賃貸なら壁紙の色や天井の高さ、床の質感も変わるし、玄関の様子もそれぞれの家で全く違ってきた。
引越してすぐには変化を感じづらいが、一年もすめば、何となくその家とその周辺に自分が馴染んできていることに気づかされる。鎌倉の中心部に住んでいたときは、やっぱり鎌倉っぽさがあり、茅ヶ崎にいた時はやっぱりどことなく湘南な感じがあった。それは言葉で説明するには難しいほど些細な違いであり、けれども確実に自分自身の中に入り込んでくる要素だった。
そういった経験を踏まえ、アートを日常的に飾ったり、いつでも手に取れて目に触れる場所においておくようになった。
私は私の選んだもので、構築されている。確実に。
服装やメイク、髪型を変えて変身するのはわかりやすい。そんな企画番組が人気があるのもうなづける。しかし、そう言った変身番組で、変身したばかりの人つまりビフォーアフターのアフター映像を見た時に、確かに素敵になっているけれどどことなく違和感があるなと思った人はいないだろうか。それは服に着られてしまっている状態でもあり、ファッションに飲み込まれている状態でもある。その服や髪型やメイクを何日か続けていければ、違和感はなくなるのだが、外側だけを変化させたばかりの時は、何かが追いついていかないのだ。
何かを変えたければ、もちろん外見も大切。なぜなら第一印象を大きく左右するのは視覚情報であることは否めないからである。
しかし3分後には、中身まで見えてしまう。そこにどんなものに毎日触れているかが確実に影響しているように思うのだ。
もしもあなたが、アートを家に飾ることに興味があるなら、ぜひすぐに始めてみて欲しい。高いものを無理に買う必要はない。大切なのは心から気に入ったものを飾ることだ。
それは現代アートとして評価されているものである必要はないかもしれない。特別に気に入った壁掛けや置物型のインテリアでもいいし、どうしても惹かれてしまった植物でもいい。照明器具でもテーブルでもいい。花瓶でもいいし、一生物と思えるような鍋でもいい。
あなたの家にあるもの全てがあなたを作り上げるアートであり、わかりやすく目には見える表現ではなくとも確実にあなたを語る要素になる。
大切なのは自分にとって、そのものが「特別な何か」であること。
アート作品は、食べられるものでもなければ、使用する道具でもない。だからこそアート作品を買って飾ることは「日常から離れた特別感」を生活に追加するという行動を明瞭に実行しやすい。
頻繁に目に入るもの、一緒の空間に存在するものを、決して蔑ろにしてはいけない。
かっこ、コンクール前や試験前の音大生を除く、かっこ閉じる。
多分音大生は自分の楽器の周りだけ異空間にトランスポートできるんだと思う。