コーヒー焙煎6年
夫の何気ない一言と抜群の行動力(ネットでポチっとされただけだが)により、我が家のコーヒー焙煎担当になって気がつけば6年ほど経過している。日々の料理と同じようにコーヒーの焙煎も繰り返してきており、特段のストレスもなく、焙煎をやめたくなったことはない。
過去に2度ほど、確か焙煎ができなかった時があったのだが、それは仕事が猛烈に忙しい上に引越しも重なったという、絶対に無理でしょう料理すら作れないしご飯を食べる時間もないし、とにかく寝る時間もあんまりないんですよ、みたいな時期に市販のコーヒー豆を買ったような気がするが、それくらいの話であって、あとはずっと私が焙煎したものを家族で楽しんでいる。たまに夫も焙煎してくれたりはするのだが、何かの相性が悪いのか、キッチンのコンロで焙煎する方法は、向いていないような様子だった(知り合いのコーヒー屋さんを手伝っていた時に機械焙煎をしていたことがあるのだが、電気を使った機械焙煎は夫の方が得意そうだった)。
コーヒーの焙煎は、一番最初に挑戦してみた時こそ、おっかなびっくりで作業をしていたのだが、すぐに慣れてしまった。仕上がりも割と最初から美味しく飲めるものが作れていたような気がする。
聞けばキッチン焙煎の失敗談や、うまく行かなくてそのうち挫折してしまったという話、面倒になって続けられなかったという話もちらほら聞こえてくるので、向き不向きがあるのかもしれない。料理だって、好きな人はどんどんこだわって作っていくし、苦手な人は苦行でしかないだろう。ちなみに私は、料理が、ではなく、食べることそのものが苦手なので、苦手である食事という行為のために自分の体力と時間が削られてしまう料理というものも、あまり好きにはなれないのだが、コーヒーは自分で積極的に飲みたいなと感じるものなので、焙煎を苦痛に感じることはないのかもしれない。
私が6年ほど焙煎を続けてきてみて、その中で気がつき、気をつけていることがある。
それは自分の気持ちを穏やかにし、楽しい気分で焙煎をすることだ。
焙煎をするとき、ちょっと気持ちが急いていたり、何かモヤモヤすることを考えていたり、心が穏やかではない状態だったりすると、不思議なことに出来上がったコーヒーの味もちょっととっ散らかったような、ドタバタした感じの味になったり、そわそわした味になったりする。これは苦味がどうとか酸味がどうとかいう話ではないので、厳密に言えば味は他の時と対して変わりない仕上がりになっているのかもしれないのだが、数値化できないような何かの差を私はコーヒーに感じてしまっているのだ。
これは他の誰かが飲んでもそう思うのかはわからないが、とにかく私はそう感じてしまう。単なる思い込みかもしれないし、気のせいかもしれないのだけれど。
自分の焙煎がしたいなと思うタイミングと、月の満ち欠けのリズムがリンクしていることにも気がついた時には、少し驚いたものの、この地球上にいる人間が宇宙と全く関連しないで存在していると思う方が思い上がりだしおこがましいだろうと思い直して、なるほど何か影響は受けているものなんだろうなと思うようになった。
焙煎をする前、私はキッチンも周囲も丁寧に片付けて軽く掃除をしてから、すっきりとした気分で焙煎を始める。焙煎をすると、コーヒー豆から飛び散ってくるチャフがどうしても周囲を汚してしまうので、掃除は焙煎の後も念入りにしなければならないのだけれど、散らかっていたり、洗い物が残っていたりするキッチンでは、どうしても心が穏やかになれず、焙煎を楽しめない。焙煎の前に掃除、焙煎の後にも掃除。結果的にキッチンが綺麗に保たれる。一石二鳥である。
都市ガスの普通のコンロだけれど、焙煎機をセットしたら、火の神様に感謝をしてから焙煎を始める。「いつも安全で心地よい火をありがとうございます。」焙煎が終わったら、掃除をしながら「今日もありがとうございました。」ただこれだけのことなのだけれど、なんとなく習慣になっている。
コンロに点火して、焙煎機の網を手回しレバーでくるくると回しながら焙煎をする。火、水、風、土、金、一つ一つ、心に五つの要素が思い浮かび、下から上へ、上から下へ、くるくるとエネルギーが回りながら焙煎が進んでいく。どこかで聞いたことがあるような、初めて聞くような、なんとも言えない音楽のような民族の歌のようなものが頭のどこかでうっすら鳴っているような気がする時がある。それはくるくる回る焙煎網の中で踊っているコーヒーの生豆が歌っているのかもしれないと、ある時感じることがあった。
今日はこれくらい焙煎しようかなと予めなんとなく思っていた量があったとしても、もしも少しでも途中で疲れを感じたら、その日は焙煎を終えるようにしている。焙煎は、私にとって楽しいことではあるけれど、同時に色々なエネルギーをたくさん使ってしまうことのようで、思っている以上に集中力を使っていたりエネルギーを使っていたりするようだ。
今日の持っているエネルギーはここまでだな、これ以上は上手くコントロールできないなと思ったら、作業を早めに切り上げる。欲張らない。無理をしない。また翌日、エネルギーが回復したら、続きの焙煎をする。これも6年続けているうちにわかってきた、自分なりのリズムだ。
火さえ確保できれば、大体どこでも焙煎ができるようになったと思う。便利なことだ。また一つ、いつでもどこへでも引っ越せるぞと思える技を身につけられた。
先日は焙煎前の作業、生豆の選別をのんびりとしていた。虫食いの生豆を取り除いていく。以前はこれも、バタバタした感じで急いで作業をしていたのだが、速度を競う競技でもあるまいし、そんなに急いでも結果はあまり違わないのだとある時気がついてからは、あえてのんびりと作業をするようになった。おかげで、無駄なエネルギーも消耗せず、心も穏やかである。思うに動作が速すぎると、ガサガサと粗いエネルギーが発生して自分を取り巻いてしまうのではないだろうか。一つ一つの動きや、言葉のスピードを、少しゆっくりにしようと決めるだけで、随分とたくさんの物事が心地よく穏やかになるのだなと、この歳になってようやく気がついた。
ダラダラするのと、ゆっくりするのは違う。
私は静かにゆっくり丁寧に、穏やかに、生きていきたい。