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思ってた感じと違ってしょんぼりしながら対人について考える
あちこちで長年話題になっているいわゆるロングセラーな本を図書館で借りたのだけれど、勝手に期待していた感じと違っていて、なんとなくしょんぼりする。
だからと言ってその本が悪いわけでもないし、話題になってたくさん宣伝を見かける本がダメだという話でもない。例えば『むらさきのスカートの女』も『東京都同情塔』も『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』も、どれも話題になっていた本だったのにしばらく読むタイミングを逃していて、早く読めばよかったなと思った本たちだ。
今回読んだのは『自分の小さな「箱」から脱出する方法』という自己啓発書のような話題本で、図書館でもたくさんの人が借りて読んだのであろう形跡が本のクタッとした具合から見て取れた。
この本は主に、対人関係の悩みについての話であったのだが、私が欲していたのは人に対してではなく、自分自身そのものについての自分との向き合い方だったので、ちょっと期待していた内容ではなかったな、というだけの話であり、何か会社や家族の間での対人関係について考えたい場合にはピッタリの本なのだろうと思う。
私は、多分、元々そういう気質を持っていたというのもあるのだろうけれど、自分自身について、もっともっと深く掘っていきたいと思っているのだ。それに関して他人がああだこうだというのを考えるようなフィールドではないところで、自分自身を探求したいと感じているのだと思う。
もちろん地球で生きていく限り、対人の何かから完全に逃れることはできない。だからこそ、対人関係というのは悩みが多く発生し、その解決方法というのもいろいろ発案され、そして解決法へのニーズもたくさんあるのだろう。
私はそれ以前の問題、というべきかわからないのだが、とにかく全く別の部分で、解決したり探求したり納得したいと思っている。自分自身を納得させたい。自分自身を自分で理解したい。自分の考えがどこからきてどこへいくのか知りたいし、自分の心の反応がどこからきているのかを知りたい。自分が何かの出来事に対してどんな気持ちになっているのか、観測し続けたいと思うし、なぜ好きなことと苦手なことがあるのかも、考えたい。
自分に対する問いは尽きず、それの一切は他人に対する問いではない。「なんで?」という時、私は大抵、自分自身に対してそれを言っている。他人に対していうこともあるとは思うのだが、そこまで重要な疑問ではない。大抵、〇〇だからという程よい答えがもらえるだけで他人に対する「なんで」は終了する。「ふーん」で、終わり。それがいいだとか悪いだとかはあまり思わない。「へーそうなんだ」、である。
小さい頃はこんなこともなかったような気がしないでもないのだが、大人になるにつれて、自分と似たような感覚を持つ人がとても少ないような気がしてくるのと同時に、他人の考えはあくまでも他人のものであり、私がどう思おうがどうだっていいのであると感じるようにもなったから、そんなふうに反応することになっているのかもしれない。究極に言えば興味がないのかもしれないし、強い興味があっても、何かの強い感情が現れるような反応には成りようがないのである。それは全くもって自分のことではないのであり、そうなると感情も生まれづらいことになる。火星人がいたとして、例えば彼らは気体の中の窒素をとても美味しいと感じるんだよと言われても「へーそうなんだ」である。それと同じようなことが、他人が何かについて思っていることを知ったときに発生しているような気もする。一概に全てそうとも言い切れないかもしれないが、この件についてはちょっと近いところまで言えているような気がしている。
ここまで興味がないことに自分で気がついて、そしてそれをこうやって言葉にして表現してしまうと、「もしかしたら冷たいやつだなと思われるかもしれなくて、なんだか嫌かもしれないな」と昔は思っていたような気がする。だからこの考えが突然発生したわけでもなく、本当は元々持っていた考えなのだけれど、いい人のふりをするためにひた隠しにしてきた部分とも言える。その「いい人」というのも、私の中の勝手な妄想上の人物で、こんな感じがいい人って思われそうだなというものを、勝手に作り上げて、それをやってみていたに過ぎないのだけれど。
毎日、夫以外の人間の気配がする生活に疲れていた。それでも30代くらいまでは、体力で無理やりカバーしてきたのだと思う。
今は静かな家に引っ越すことができたおかげで、これまでいかに疲れてきたのかを知ることになってしまった。
毎日人に会うのが難しい。ちょっとした外出でも、辛いなと思うことがある。
誰にも会わずに済む日は、とても穏やかな気持ちになることができて、心身が根っこから休められているように思う。
それでもそんな私にも会いたい人はいるし、積極的に会いに行こうと思うこともある。
なんというか、バランスなのだろう。
私にとって、人に会うという作業は、100メートル走のようなものだ。
その1本の走りのために準備をして、最高の100メートル走決勝に挑む。
何十キロも走り続けるようなマラソンタイプではない。100メートル、走り終わったら、即解散して、帰りたい。その代わり、100メートルはびっくりするくらい全力で臨む。
多分そういうことなんだなということに、自分のことのくせに、やっと自分で気がつき始めている。だから、だらだら続く会食はとても苦手。飲み会もできる限り断る。パーティー系も必要な人たちにしっかり挨拶をしたら早めに帰る。社交的な人には到底考えられないような無愛想さなのだろうけれど、苦手なものはもうどうにもならない。
もうここまできたら、こいつは本当に生存しているのか怪しいというくらい、レアキャラとして生きていくのも、ありかもしれない。しかしその場合どうやって、レアキャラになれたか判断したらいいのだろう。「ぎゃあ、でた!」と遭遇した時に知り合いから言われたら、目標達成なのかな。それはそれで、どうなんだろうね。
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