燃えるゴミの先を考える
この2年の間に、ステイホームという掛け声と共に、家で過ごす時間が圧倒的に増えた人も多いだろう。
元々家にいることが好きな私は、ステイホームよるストレスはそれ程深刻ではなかったのだが、外食好きや飲み歩き好きな人たちや、家族と24時間一緒にいることがストレスになる人たちにとっては、まさに修行のような日々だったことと思う。
ステイホームは外出をしないことによる運動不足からくる所謂「コロナ太り」や病院への受診控えによる重篤な病気の発見の遅れなどの健康への影響や、精神的なストレスの蓄積など、ウイルス以外の思わぬ場所からも被害が続出した。
そして初期の頃から目に見えて明らかになっていた害といえば、家庭ゴミの極端な増加だった。一時期大阪の住宅街にいた私は、そこでゴミ収集車がいつもの回収時間から何時間も遅れてやっと目の前の集積所のゴミを回収する様子を何度も目撃した。
デリバリーフードからは明らかにカサのある大量のゴミが排出される。もちろんその分、企業や店舗などから出させる事業ゴミは減っていたのかもしれないが、それを差し引いてもゴミは増えてしまったのではなかろうかと不安に思った。
果たして、私たちが出してしまった集積所のゴミは、回収車に積まれた後、具体的にどうなっているのだろうか気になって、あちこちのウェブサイトを見て回った。
摩訶不思議なことに当事者である地方自治体によるゴミ処理の解説ページからは私が本当に知りたかった真に具体的な部分がほとんど掴めなかったものの、なんとなく全体像から伝わってきたことは以下の通りである。
燃えるゴミを回収する。燃やす。埋め立てる。
以上。
この「燃やす」の後に行われていることに、愚かにも今まで気が回らず、そしてとても気になった。「埋め立てる」のだ。もちろんゴミの埋め立てによって作られた湾岸の埋立地は情報としては知っていた。けれど、いくつかのウェブサイトにはこの「埋め立てる」の後に起きてしまう問題についても少しだけ触れられていた。
現代社会には燃えるゴミに分別可能なものにも多様な素材が存在する。それらはほとんどが遅かれ早かれゴミになる可能性が高く、なんとかして最終処理をされなければならない。
最終というのが埋め立てである以上、臭いものに蓋をするような状態であることは容易に想像がつく。
この状況において、私個人には一体何ができるのだろう。
ゴミをなるべく出さないように心がけるのはもちろんだが、ゴミになる前の段階、つまり物を買う時からこの物の最終着地点を考えなければならない。
この素材は燃え残った部分が埋め立てられても大丈夫だろうか。
新たに買わずに何かと兼用したり代用したりして物の数そのものを減らせないだろうか。
そしてある時、ゴミについて考える人の大半が見つけるであろうコンポストについてのウェブサイトをあちこち読んでいた時に、全てがつながったような気がした。
そうか、燃えてもちゃんと土に還るものだけで暮らすことができたなら、今よりは多少良いのではないか。
今後新しく買わなくてはいけないものを選ぶときの、一つの基準ができた。
木や竹で作られたもので素晴らしい道具類はたくさんあるし、安価なポリエステルではなく綿などの天然素材で着心地がよく使いやすい衣類もたくさん手に入る世の中だ。
無理をせずとも意識をして選択するだけで、変えられることは多いように思う。
ここ数年で買う人が増え、豆乳ヨーグルトの価格が手ごろになったように。
アーモンドミルクや大豆ミート、乳卵不使用のマヨネーズやバターの代用品が庶民的な普通のスーパーの棚にも並ぶようになったように。
一人一人の消費が変われば、ゆっくりだったとしても必ず社会も変わらざるを得ないだろう。
コンポスタブルな生活を目指したい。
人生の最後には、私自身も私にまつわる物も、跡形もなく消えて全て地球に還せるように。