自分を知るための一人時間
今では一人で映画館に映画を見に行けるし、一人でカフェも入れるし、一人で海外行きの飛行機に乗れるようになって、一人で遠くまで新幹線に乗って行けるようになって、やりたいと思うことは大抵一人でやってみることに抵抗がなくなったのだけれど、思い返してみればこんな私も、一番最初の頃はドキドキしながら一人でカフェに入ったり映画館に行ったりしていたことを、朧げながら思い出した。
元々、どんなに仲の良い友達とだとしても群で行動するのが苦手なタイプだったことも要因だとは思うが、いわゆる「おひとり様時間」はいつの間にか私の中で特別なものではなくなっている。
一人で行動していることの最大のメリットは、全てが自分のタイミングで決められる点だ。どんなお店を選ぶのかも、そこへ行くタイミングも、やっぱり行かないでおこうと予定を変更することも、自由だ。私は元々、本やそのほかの資料から何かを学ぶ時間や、集まって来た情報を頭の中で整理して考えをまとめている時間、何も考えていないようでいて実はとても大切な情報をキャッチしている瞬間だったりする時間が好きなのだが、つまりは結構な頻度で内省する時間が多くあり、そしてそれを自分はとても大切にしているらしいということが最近やっとわかってきた。一人じゃなければできないことというのが、私の中でとても重要な部分を占めているようだ。
最近は、
「本当の本当は、どう在りたかったんだろう」
という件について考えている。
それは仕事を通じて考えてきたことでもあり、そして現状でまたさらに考えを進めなければならないことだと強く感じていることでもある。
以前から気になっていた『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』という八木仁平さんの本を読んでいるのだが、読み始めてすぐ、なぜ私が、こころの声に従わざるを得なくなったのか、原因が少しずつ理解できるようになってきた。
私はなんの不満も持っていなかったはずなのに、一体どこから違和感が出てきてしまったのだろうか。私はずっと不思議で仕方がなかった。自分の直感力を信じるしかなかったけれど、それでも理屈で理解できていなかった間は、不安が定期的にモヤモヤと立ち昇ってきていた。
この本を最後まで読んで、果たして今の私がやりたいことはこれかなと見つけられるかはわからないのだが、なぜ私があの日人生を変えねばならないと感じたのかは、はっきりするような気がしている。
「家族を大切にしたかったから」という理由を掲げて行動に移したし、それは嘘じゃないし、ある意味では一つの大きな理由なのだとは思うのだけれど、実はもっともっと奥底には私の根っこの欲求があるのではないかと今は思っている。
『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』では「好きなこと」「得意なこと」「大事なこと(価値観)」の3項目に頭の中を整理することによって、「やりたいこと」を見つけていく方法を段階を踏んで解説してくれている。
私の場合、最後に出てくる「大事なこと(価値観)」が心の中で非常に大きな割合を占めている。
私は自由でありたい。
他の誰かが決めたレールに乗っているだけなんて嫌だし、悪い意味での古臭い習慣や体質を破って前に進むような生き方をしていきたいと小さい頃から思っていた。
私は公務員と会社員が家族のほとんどを占め、医者か弁護士か看護師か医療関係技師か議員かのような「全ての角は90度で揃っていますけど何か?」というほどの四角四面な一族の中にいたにもかかわらず、小学生の頃から「私は会社員にも公務員にもならない」と宣言していたらしい。ついでに言うと「結婚もしないし子供も産まない」と小学校低学年のうちから断言していたらしい。会社員や公務員が一体どんなものなのか全く知りもしないうちからそんなことばかり言っていたので、単なる親への反抗期なのだろうと周りは思っていたと思うし私自身すらもそう思っていたところもあるのだが、今になって思えばそれは私の魂からの叫び声だったのだろうと理解できる。
周りの大人の古い価値観に飲み込まれてはいけない。
周りの大人が良いと言っているものを信じ切ってはいけない。
そんな警告が魂から発せられていたのだなと、今なら理解する。
その魂の声「自分が思う、既存の何かに縛られない生き方」をするために、次第に不要なものはどんどん手放さなければならなくなったのだ。
私はもしかしたら、新しい生き方を実践することで地球にいるどこかの誰かが「あ、これでいいんだ」と思うきっかけを、撒き散らしたいと思っているのかもしれない。その自由な振動はどこまでも広がって、それを受け止めたい人は受け止め、全く関係ない人は受信しない。私は一つでも多くの材料を手に入れて、私が自由で素敵だなと思う振動の種類を増やしていきたい。好きな場所を探して行ってみたり、尊敬する人に会ったり、必要な情報を学んだりすることで、私の振動の種類が増えていく。
悪い古さを払い落とし、新しい時代を新しい生き方で進んでいく。
私は「みんなが○○しているから」という理由だけで自分の行動が決まることが許せない。絶対にそんな判断だけはしない人でありたい。それがたとえどんなに良さそうなことであっても、「だってみんなそうしているから」なんて、絶対に考えたくない。それは想像しただけでゾッとするものであり、心のアラームが大音量で鳴り響く。「ダメダメ、あなたはそれをしに生まれてきたわけじゃないよ、全く逆のことだよ」と言う叫びに、やっとこの歳になって気がつくことができた。
とても似たように見えて説明が難しいのだが、「人と同じが嫌だからちょっと変わったことをしよう」と言う話とは根本が違う。別に突飛なことも奇抜なこともしたいわけじゃない。不要なものは容赦なく切り捨て、新しい何かをこじ開ける勇気を持ちたい。古くても素晴らしいものはどんどん取り込んで新しい自分のために必要な道具として熟成させていきたい。古いからダメ、新しいから良いという問題ではない。
今やっているのはちょっと、家の中の不用品をどんどん処分して新しい風を取り込む片付けにも似ているかもしれない。
最近ようやく家の窓を開け放てるようになってきた。これまではあまりの猛暑で窓を開けても熱風が入り込んでくるだけなので、なかなか気軽には開けられなかったのだ。
家の中に風が通るようになると、私の体の中の何かもスイスイ通っていくように感じる。
秋冬はこれだから大好きで最高なのだ。家の中を冷たい空気が通っている状態がたまらなく心地よい。