謹賀新年
日の出時刻の1時間前に目覚ましをかけ、まだ月が煌々とかがやく暗い空から次第に明るくなっていく様子を布団の中から眺めていた。
日の出まであと20分。随分明るくなってきたので慌てておき上がり、着替えてベランダに出る。先日よりも雪がさらに下の方まで積もってきた富士山が、薄水色から曇りがかったオレンジピンクのグラデーションの空に浮かび上がっていた。なんともいえない美しさと、程よくひんやりとした空気が心地よく、思わず家中の窓を全て開け放った。
新年の爽やかな空気を家の隅々まで行き渡らせる。
どんな浄化よりも一際スッキリとする、キラキラとした朝だった。
寝ぼけ眼のウィリアムを起こし、朝ごはんを食べてもらう。
簡単に水回りと玄関、外回りの掃除を済ませ、食後少し落ち着いたウィリアムを連れて近所の神社へ新年のご挨拶に向かう。
新居は神社が目と鼻の先にあり、お正月らしい神楽の録音が家まで聞こえてくる。そういえば以前の家でも窓を開けて静かにしていたら時折風に乗ってこの音が聞こえてきていたんだっけ。
元旦の朝ということもあり小さな神社でもやはり多少の混雑が見られ、カバンに入ったままのウィリアムと手短に参拝を済ませる。犬連れ参拝は不可の神社も多いのだが、ここは受け入れてもらえており、大型犬を連れた飼い主さんたちも多数参拝に訪れていた。
新年のありがたい空気もありつつも、人混みは得意ではない私もウィリアムも近場の参拝だったのに少し疲れてしまったようで、足早に帰宅した後は昼までとことんのんびり過ごすことに決める。簡単に私も朝ごはんを済ませ、いつものように洗濯をし、メキシコにいる夫からの連絡を受ける。向こうはまだ2023年だ。
結婚以来、年に何ヶ月かはこうして日本と海外での遠隔会話が続く期間があるのだが、夫はまめに連絡をくれるし、作品やプロジェクトの進捗をリアルタイムで聞くのも楽しい。
今回も今進めている作品の制作過程を随時見せてもらい、断片を見ながらとてもワクワクしてる。何かの作品が生まれていく過程や、予感を味わう瞬間はとても面白い。
新年早々、久々に大笑いしたし、数年ぶりに「これはきたぞ」という感じを味わう。この作品を作品という形として発表できるのはいつになるのか、そしてどんな場所でどんな形でになるのか、全くわからないけれど、私は今から勝手にイチオシの何かが出てきそうな気がしている。
昼を過ぎたら家の2階にいると冬の日差しがポカポカと心地よく、ベランダからカーテン越しに差し込んでくる太陽の力だけで暖房要らずの過ごしやすさだ。
数日前から鼻とお腹の調子が良くないウィリアムは体調が行ったり来たりの相変わらずの様子だけれど、昨日大きなくしゃみを連発してから少しは楽になったようで、今日は自分で日当りの良い場所を探して昼寝を満喫している。ぶぴぶぴという鼻詰まりの音もさせずに穏やかな呼吸で寝ているところを見ると、久しぶりにゆっくり眠れているのかもしれない。
ウィリアムは自分のことは概ね自分で出来ているし、食欲もあり、少しならば歩いて散歩することもできる。けれど年相応の部分もあり、いつまでこの静かで穏やかな寝息を聞いていられるのだろうかと、考えてしまう。同年代の犬たちが虹の橋を渡り、若い頃とは明らかに様子の違うウィリアムは、足がもつれて転んでも、良く見えなくて壁にぶつかっても、毎度気を取り直して、自分に向き合っているようにも見える。
夕方を過ぎると心細くなる時間が増えるようで、抱っこしてほしいとせがむようにもなってきた。寝る時は私に密着したいあまり、グイグイと布団の中で背中を押しつけてきて、結果私が布団の外に半分押し出された状態で朝になることもしばしばだ。
来年まで一緒にいられるのか、正直わからないし、ここ数年は毎年そんなことをリアルに考えてきた。私は相変わらず、生と死への執着を全く捨てきれていないし、これはウィリアムと一緒に生きている間に何か自分なりの答えを見つけたいと思っているのだけれど、結局そんなに簡単に見出せるものではないかもしれない。
ただ今日という新年を穏やかに迎えることができたことに感謝をして、明日もまたありがとうと思い、そうやっていつか必ずやってくる終わりの時までの毎日を積み重ねていくしかないのだろう。
ともかく今日は、ここ数日ぶりの心地よい空気で、自分のペースは自分にしかわからないことと、何か違うなと思ったら潔く素早く引き返すことも大切なことや、直感的にいいなと思ったことを存分に味わうことの重要性を感じることのできた元旦だった。
夕焼けもきっと綺麗だろう。
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