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「自分で在る」とは。44歳になったらインスタが不通になったのでこれを機に考えてみた。

ハッピーバースデー・トゥー・ミー

7月28日。「なにわの日」に生まれたわたしは、雪国ですくすく育ち、東京に出てきて闘い、大阪出身の人と結婚して、今日で8回目の結婚記念日を迎えた。「忘れちゃうから」という理由でわたしの誕生日と結婚記念日を同じ日にした夫は、今年も忘れることなくこの日を一緒に過ごしてくれたのだが、万が一忘れた時のダメージは2倍になるリスクは考えなかったのだろうかと、毎年思うのだった。一応、今のところ、忘れたことはまだ一度もない。なにしろ、仕事のスケジュールを書くためのカレンダーに、年の初めにデカデカと書き込んであるのだ。間違えてこの日に他の予定を入れないようにという念の入れようは素晴らしい。


わたしと一緒にお嫁に来たウイリアムさんも17歳。
今年はもしかしたら3人(二人と一匹)で過ごせる最後の7月28日かもしれない。
どんどん痩せるウイリアムさん。
生まれた時から一緒にいるが如くウイリアムさんを大切にしている夫。


インスタ不具合

さてそんなわけで、今年も平和に訪れた7月28日なのだが、なぜか昨日の夜あたりからインスタグラムにログインができない状況になった。そしてついには、このアカウントにはアクセスできませんというサインまで出始めた。

そもそもインスタグラムを始めたきっかけは仕事関連だったのだが、それと同時に世界のアーティストや自分が繋がりたいなと思う人たちとの交流手段としても使ってきた物だった。しかし最近、このインスタグラムをどうしたものかと考え始めたところだったのだ。特に不満があるわけではないのだが、なんとなく見直す時期なのかもしれないなという漠然とした思いがあった。そこにきて、このログインできない状況である。これはもう「一度立ち止まって、方向性を整えたら如何でしょうか」という神からの思し召しなのではないかと考えることにした。

インスタグラムは画像や動画を気軽に投稿でき、仮にキャプションの言語が読めなくても画像や動画を見て楽しめるというメリットがある。さらに最近はキャプションの自動翻訳機能も精度が少しずつ上がってきているようで、自分が苦手な言語の人のポストも簡易的にではあるが内容をなんとなく掴むことは可能だ。おそらく誰かの日本語のポストを自動翻訳で読んでいる他言語の人もいるかもしれない。

今後の方向性

結論から言えば、わたしは今後もしかしたら、もっと「ブログ寄り」にシフトするかもしれないと感じ始めている。インスタグラムでもある程度の長さの文章は投稿することは可能だが、あのサイズ感で画像の下にある細かい文字を読む気になれるのかと問われれば、難しいかもしれないなと感じている。インスタグラムは文字を読むための構造としてはそもそも作られていないのかもしれないし、画像と少量のハッシュタグ程度の情報量で楽しむ方が良いのかもしれないということ今更ながら思っている。

長々とした文章をどうしても書きたい、というわけではないのだが、ある程度まとまった形で自分の考えを提示したいとは思う。そうなると、受け皿としての場所がやはり「文章を読むために考えられた場所」の方が良いのではないかとも思うのだ。
とはいえインスタグラムを今すぐやめるという決断をしたわけでもない。ログイン問題が解消されたら、もしかしたらインスタグラムについての違和感も、接し方を変えるだけで何か解決するかもしれない。


インスタの不具合でiPadに向きあう時間が増えた。しかし最近のiPhoneはすごいね。
iPhone15。
ポートレートモードで、光の当たりかたもワンタッチで変えられて、
ポチッとシャッター押すだけで背景を勝手にぼかしてくれるの。
いい感じの光にもしてくれんの。
なんなんこれ。
高度すぎてついていけない。

noteを始めたきっかけ

このnoteはそもそも、自分の考えをまとめていくための場所として、前の職場に所属していた時からひっそりと始めていたものだった。当時は職業としての公式ブログも持っており、それとインスタグラムの二本立てだったのだが、どちらも職業柄クライアントさんや事務所への忖度の塊であり、結果的に可もなく不可もなくのような投稿が連続していた。それを何年も続けているうちに、次第に自分の考えをまとめる力が弱くなったように感じ、危機感を覚え、こっそりとnoteに書く練習を始めていたのだ。それでもやはり前職を離れるまでは忖度風味のこびりつき度合いは激しく、その外側の分厚い何かを取り除くのに、1年半以上を要してしまった。

個性が強みになる職業だったはずが

わたしは、本当に自由に感じる、わたしの思う通りの自分になりたかった。それは勝手気ままだとか、わがままに振る舞いたいだとかではない。わたしは「自分で在る」ことを真剣にやりたかった。職業を通してそれが出来ていくのかと思っていたが、いつの間にか、どんどん遠くまで流されて、危うく戻れなくなりかけた頃に、はっと気がついて、立ち止まった。わたしは「自分で在る」ことをやっているように見せかけて、実は「社会の求める何らかの誰か」になっていた。全くもってそれは「自分で在る」ことではなかったと、やっと気がついた。

「自分で在る」それって意味あるの?

わたしが思う「自分で在る」ことを実行していくことに、なんの価値があるのかはわからない。社会にどう役立つのかなんて、本当に全く分からない。でも、ただ心の声が叫んでいるのは『「自分で在る」ことを真剣にやれ』という言葉なのだ。

インスタグラムへの違和感は、システムの問題ではなく自分自身の心の問題だと思う。今のままの形で続けていくことで、いつまで経っても他人軸の何かや、余計なものが混じり込んでしまうように感じている。自分自身がしっかり整いさえすれば、どんな形式のSNSを使おうが「自分で在る」ことが可能になるとは思うのだが。

わたしはわたしが、本当に素敵だなと思うことや、大好きだなと感じること、大切に思っていることや、渇望していることについて、もっと真剣に向き合わなければならない。それが忖度も損得もなしに実践していけなければ、いつまで経ってもわたしは「自分で在る」ことができないままなのだろう。


iPhone15。ポートレートモード。
髪の毛の乾燥具合まで写してはくれんでいいのよ。。。
しかしワンタッチで背景とか全体がここまで調整してくれるのが
凄すぎて何がどうなってんだか。


「自分で在る」ために必要なこと

わたしが思う「自分で在る」ために大切なことは以下のようなことだ。

・正直で在ること。
・周りと自分が違っても恐れないこと。
・自分と違う人もそのままに観測すること。
・ステレオタイプな思い込みを自分の中に見つけ次第、取り外すこと。
・頑なにならないこと。
・柔軟な目線と思考を維持すること。
・嫌なことはなぜ嫌なのか正直に真剣に考えること。
・心から喜びを感じられることを充分に味わうこと。
・決して無理をしすぎないこと。
・時々は自分を小休止させること。
・新しい知識を得る喜びを大切にすること。
・優先順位を見誤らないこと。

無計画では生き延びられないかもしれないが、「打算」があっては「堕算」になる。44歳はとにかく「自分で在る」生き方をいよいよ真剣に取り組み始める元年にしよう。


温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。