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メディテーター(瞑想する人)

前の所属を離れた直後、私はタイのチェンマイに一人で出かけた。その時に出会ったネパール人の師匠の話を時々思い出しているのだが、最近になってだんだんと当時言われたことの意味が理解できるようになってきた。
そのネパール人はシンギングボウルの師匠であり、これまでにも多くの弟子を輩出しながら今でもチェンマイで指導やヒーリングセッションもしている。師匠と言っても老師という感じでは全くなく、むしろ若い。
師匠は何を思ったのか私との対話の時間を本当にたくさん設けてくださり、私の短い滞在期間中に色々なことを話してくださった。そして最後の日、1日の仕事が終わった後に私とまた話をしてくださり、その時に言われたことが「メディテーター」だった。
どういう話の流れだったか明確ではないが、確か私が「私はこれから全く新しい道になるから一体どうしたらいいのか悩むんですけどなんとかやってみます」みたいな話をした時に、師匠からの言葉が「瞑想したらいいよ」というもので、その後色々話をしながら「仕事はどうしようかなって思ってて」と私が軽く言ったら「メディテーターだよ」と言うのである。
私は思わず日本語で「へ?」と言ってしまったが、ニュアンスはちゃんと伝わったようで、再度「メディテーター」とはっきり言われた。
師匠曰く「麻里あのね、たとえば、インドにはずっと同じヨガのポーズをし続けながら瞑想している人とかいるんだよ。その人はメディテーターなんだよね。メディテーターをやってるんだよ。」と続けて説明してれたのだが、私は心の中で(いやいや、仕事の話やねん)と突っ込みつつも師匠にそんなことは言えないので、「はい。瞑想を習慣にしてみます。」と答えてその話はそこでは終わったのであった。

実は私はコロナ期間中の仕事が全て白紙になった時期からまとまった時間の瞑想をしていたのだが、それ以前にも今思えばあれは瞑想だったのかなというようなこともちらほら私の人生の中では発生してきていた。しかし最初にちゃんと瞑想をしようと思い立ったのは時間が確保できたコロナ禍だったのだが、最初はまあ大変だった。とにかく最初の1ヶ月くらいは頭の中の声がうるさくてたまらない。じっと座っていることは得意な方だとは思ったものの、この瞑想というものがギャンギャンに脳内の声が止まらない私にできる日が来るのかと不安に思いながらも続けていた。そして次第に少しずつだが頭の中の声が止まる時間が増え、静かに座っていられるようになってきていた。

そんなわけでチェンマイの師匠との対話から帰国した後、瞑想を習慣にするというのは私にとって比較的スムーズに出来ることだったのだが、それにしてもやっぱりわからない。メディテーターってなんだよ。シンギングボウル販売のお店も営みヒーラー養成コースも開催している師匠のところに行って、「シンギングボウルヒーラーになったら?」とは言われずに、「あんたはメディテーターやな」と言われるってどういうことやねん、とまたも心の声がじゃんじゃん盛り上がりながら過ごしてきていた。

しかし長年多くの人を見てきて、私へのプライベートシンギングボウルセッションもして、なお人間としての対話も何時間もしてくれた師匠が別れ際の最後に放った言葉なので、何かしら意味があるのだろうと、理解できないまま「メディテーター」をひとまず素直に箱に入れて収納しておいたのだった。師匠のその時の目線とはっきりしたエネルギーのようなものを私は今でも思い出すことができる。

さて月日は流れ、不出来な弟子は師匠のところでどうしても欲しくて買ってきた、たった一つの古いシンギングボウルを片手に瞑想をしたり、何も使わずにただ座ってみたりをしながら、1年半以上も過ごしてきた。

ある時奇妙な感覚が訪れる。自分が本当にここに存在しているのか疑いを持ったのだ。自分の体をバンバンと叩き、自分が存在しないんじゃないかと怖くなり、ここにいるはずだと何度も確認する。瞑想をしながら、どこにいるのか分からなくなり、どこにもいないような感覚に陥った。本当は全て、まやかしなのではないだろうか。

よく瞑想体験などの記事を読んでいると、「世界と私が一つになって、この上ない幸福感が」云々だとか、「ワンネスを感じられて幸せな涙が」云々だとか、そんな話を見かけるのだが、私の場合は、「いやいやちょっと待て、ほんと怖いから、私はどこにいるの、宇宙ですらない未知の空間に投げ出されて迷子になって360度どこにも掴めるものがなくて、ほんと怖いんだよ」と混乱していただけだった。「え、みんなこれ、幸福なのか、ほんとに?私が変なのか?」と瞑想を終えてから自分と見えない何かにツッ込んでいた。

そしてこの恐怖と向き合いながら、諦めずになんとか瞑想を続けることしばし。なぜなら私は幼い頃から疑問に思っていた「今とは何か」という問いと向き合ってきたし、そこから発生する色々なことが私の生きるテーマにつながっていると最近確信し始めていたからだ。瞑想もそれら私の根源的問いとテーマにつながるものだと直感的にだが感じていた。ここにヒントがある。そう感じたことだけを頼りに、怖い怖いと思いながら、何度も夜中に飛び起きるという恐怖も味わいながらも、瞑想を続ける日々を過ごしていた。

そうこうしているうちに私は、これまで瞑想の練習と並行して、知識として学んで吸収してきた、世界も時間も私というものも全て存在しないという理論を反芻した。するとある時ふと、私というものが存在しないかもしれないことが怖くなくなったのだ。

そしてようやく最近になって師匠の言葉「メディテーター」を素直に受け入れようという気持ちになってきた。しかしメディテーターをやるって言ったって、マネタイズはどうすんねんとか、確定申告の職業欄にそれ書けるの?とか、いろんな常識が頭をもたげたが、もうそういうことは一旦横に置いておくしかない。なぜなら私個人にとっての瞑想のメリットが見え始めてしまったからだ。

瞑想をしている時、私は私自身と私の周りの空気がこの上なく透明になっていくのを感じる。家の中に強烈な空気清浄機でもかけましたかねというくらい、ただ瞑想をするだけでその前後に圧倒的な変化を感じる。それだけでも自分と家族がいる空間を綺麗にできているならままいいんじゃなかろうか、と思う。電気もガスも機械もいらないのでコストは無料。ただ私はこの状態になるまでに何年も要してしまったという事実もあるので、無料でできるとはいえお手軽とは言い切れいないかもしれないのだが。

実はここ最近、掃除をしてもしても「なんか家が汚い」「なんか家が混沌としている」と感じられてとても辛かった。片付けはもちろんする。拭き掃除もする。壁も磨く。ステンレスもピカピカに。カビも徹底的に除去して、除菌スプレーもまく。それでも「なんか家が汚い」のである。それはなんとも言えない澱が溜まっているような、モヤモヤとした感覚で、拭っても拭っても取れないのである。換気をしてもダメ、ミントスプレーをしてもダメ。セージを炊いたりお祓い的なことをしてもダメ。神棚ももちろん綺麗にしたけれど神棚から「そういうことじゃないよね、掃除はいいことだけど」と声が聞こえる始末。わかってます、そうなんです、わかってるんですけど、どうしたらいいのか分からないんですよと、ヒーヒー言いながら掃除を続けるしかなかったのだが、ある日ある時、何気なくシンギングボウルを2階から持って降りてきて、1階の家の中心あたりに座り、シンギングボウルをボーボーと鳴らしながら瞑想を始めたくなった。すると、瞑想後、全ての檻が消えていたのである。不出来な弟子は、遠回りをして、色々出てきたサインにも、違うそれじゃないみたいな対応ばっかりして、何度も蹴つまずいてやっと辿り着くわけで。意に反してカビ○ラー買っちゃったじゃないのよ。まあしつこいタイルの目地のカビは一発で消えたけれどもさ。

それにしても瞑想したら家がピカピカッとしただなんて、シンデレラの魔法使いもびっくりな荒技であり、なんだこれはと思わずにはいられなかった。
そしてさらに考えていけば、私自身が家の中の空気を清浄にしたというよりも、私自身が変化したことによって視点が変わり、別の私からみた空気を見ているので、そう感じられるようになるということの方が正しいのではないかとも思う。私という存在があると仮定するならば、私たちは自分からの視点でしか世界を捉えることができない。周りの世界が変わったように見えていても実はそれは自分が変わったことが原因かもしれないのだ。

世界は存在せず、時間も実在ではなく、私というものすら存在しているか分からないというところまで考え着いた今、最後の砦、唯一の拠り所の「私」ですら無い状態で在れる時がある瞑想時というのは、一体なんなのだろうかと最近は考える。考えるが全く答えは見つからない。
しかし家の「なんか汚い」は一気に解決した。もちろん片付けはちゃんとしなければ汚くはなるが、あの片付けてもモノを捨てても整理しても磨いても「なんか汚い」という辛さからは解放される方法が見つかったのだ。よかった。これで安心して寝られる。

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MariKusu
温かいサポートに感謝いたします。身近な人に「一般的な考えではない」と言われても自分の心を信じられるようになりたくて書き続けている気がします。文章がお互いの前進する勇気になれば嬉しいです。