38.「令和の白拍子」清く、正しく、逞しく〜宝塚音楽学校ライフ…からちょっと脱線
令和の白拍子こと、花柳まり草こと、まりちゃんです。
一月がもうすぐ終わりそうですね!本当に早い・・・。
二度目の緊急事態宣言がなされましたが、皆様お元気でお過ごしでいらっしゃいますでしょうか?
私はお陰様で変わりなく過ごしております。
今日はドタバタ武庫川ライフを書こうとしました。そして、いつものように前フリを書いておりましたら、膨らませたくなってしまった話がありました。なので、今日はそちらに焦点を当てて突き進むことにします。
いつも勝手で申し訳ございません!笑。
お付き合いいただけましたら嬉しいです。
昔のまりちゃんに話すつもりで、私も書いていきたいと思います。
■ケセラセラ
突然なのですが、まりちゃんの今年の目標の一つに「コツコツと目の前のことに向き合う」というものがあります。
良い意味でも悪い意味でも「なる様にしかならないこと」って沢山あるなぁと、つくづく思わされる事が続いたからです。
特にコロナ騒ぎが激化してからは「やりたくても出来ない」「ままならない」ということが増えました。皆様も同じだと思います。
今までのまりちゃんでしたら「目的」や「野望」や「欲望」を設定し、そこに向かって突き進んでいくことが生きる事だと思っていました。
(このnoteを読んで下っている皆様は、大体私の行動パターンや思考パターンをご理解いただけていると思いますが笑)
「引き寄せの法則」も信じていましたし「ポジティブ思考」であることも心がけていました。
実際に「目的」や「やりたいこと」や「実現したいこと」を紙に書いたりもして、自分を奮い立たせていました。
元々が根暗な性格なので意識的に明るい方を向いていなくてはという思いもありましたし、気持ちを奮い立たせないと「本当に何もしたくない」のがまりちゃんの本性なので「これでは益々ダメ人間になる」と危機感を持っていた訳です。
必死に紙に書いたそれらの事柄は、必ず実現できると信じていました。
でもふと立ち止まってみたところ
「目の前のことをコツコツやっていたら、いつの間にかこんなことになっていた」「気がついたらこんな方とご縁ができた」
みたいな事の方が、実は沢山あったのだという事実に直面したのです。
しかも大事な局面の時は「目の前のことをとりあえず頑張っていたら、知らず知らずのうちに、なんか辿り着いた」と言えることの方が多かった気がします。
自分から求めるばかりの時・・・肩に力は入るし、周りのことは薙ぎ倒していくし、とても無駄な労力を使っていた様な気がします。
また自ら求めてばかりいると「望む様な結果が出なかった場合」や、「望む様なことが起きなかった場合」の失望感がハンパないのです。
「絶対に手に入る」と勝手に思いこんでいるから、「手に入らなかった」と思ってしまうのです。
でも、実際には何も失っていないのです。
望む道以外にも選択肢は限りなくあり、新幹線で行こうと思っていたけれど、たまたま飛行機に乗ってしまったくらいのことなのです。たぶん。
最近のまりちゃんは肩の力が抜けてしまって「コツコツ」「自分の手の届く範囲を大切にすること」「目的地を設定せずに、その道中自体や行き着く場所を楽しみにする」というスタンスになって来ました。(今更〜〜〜!!!!笑)
あ、あと「肩書きなんて関係ない」「手放そうと思えば、いつでも手放せる」という風に考えられる様になったらいろんな事が楽になりました。
悩み多き時代から、さらに悩みが増えた感じがあります。皆様にどんな風に参考になるのか分かりませんが、最近そんなことを考えながら生きておりましたら、少し楽になりましたのでお話しさせて頂きました。
■「ネトゲ依存は病気」について論じているAbema TVを見て
はい。
急にどうしたの?
というツッコミが聞こえてきそうなタイトルです。
どういうことかは順を追って説明致しますが、考え方が楽になったキッカケがありましたので、そちらもご紹介させて頂きます。
まりちゃんはYouTubeをよく拝見しています。
都市伝説、怪談話、オカルト、裏社会・・・そういったテーマが特に興味深く、よく拝見しています笑。
あとは「Abema TV」という「ライブストリーミング形式インターネットテレビ」の番組がありまして、そこの公式チャンネルで配信されているニュース映像(多分本編の抜粋)を拝見することも多いです。
死刑制度、引きこもり、覚醒剤依存からの治療を行なっている方の実態、性的マイノリティーの方、障害のある方、難病にかかっていらっしゃる方々のリアルな声・・・など、テレビの電波では扱いづらいテーマを取り上げてくださるので、いつも興味深く拝見しております。
で、そのチャンネルで「ネトゲ依存は病気」とWHOから認定されたため、実際に「ネトゲ廃人」の方の声を聞くという回がありました。そのネトゲ廃人の方は多い時で20時間もオンラインゲームをなさっているそうです。そんな時の睡眠は三時間、ご飯はレトルトで済ませるそうです。ただ、普段はやりたい事を学ぶために自ら選んだ大学にも通われているし、ご家族も裕福で、ご本人も何不自由なく暮らしていらっしゃる様子でした。
かつてのまりちゃんも大好きだったスーパーファミコンやプレステと違い、オンラインゲームには『クリア』という明確な終わりがないのがコンセプトだそうです。
なので、「仲間たちとワイワイ終わりなき旅を楽しむ」という感覚でゲームに没頭されているそう。
その方がゲームにハマった頃は「現実の世界が第2の世界で、ネットの世界が第1の世界」という認識になり、それゆえ「ゲームが上手くないと自分は生きている価値はない」とまで思われたそうです。
・・・そんな様子を収めたVTRをスタジオのゲストの皆様がご覧になって、色々と熱い意見を交わすのですが、そこで大変面白いやりとりがありました。
その日のゲストには、ゲーム依存症の当事者やそのご家族の治療をなさっている精神保健福祉士の八木眞佐彦先生、そして過去にはご自分もゲーム廃人並みにオンラインゲームをなさっていたという大島薫さん(タレント・作家)、鋭い切り口でコメンテーターとして活躍されている若新雄純先生(慶應大学特任准教授)が出演されていました。
若新先生のご意見の中で、「ネトゲ廃人」の方のスケジュールは「外資系コンサルで働いている人」と全く同じ、というものがありました。なるほど、と思いました。
「ゲーム依存は病気なのか」について、お三方の興味深いご意見をいくつかご紹介させて頂きます。(原文ママではなく、加筆・要約させていただいております)
《若新先生》■スーパーファミコンやプレステと違って、オンラインゲームは「社会」が出来上がっている。(ネット上でチームを組んで戦ったり、職業が存在したりして、役割が与えられていることから。自分だけが離脱できない「社会」)
■かつての家庭用ゲームのように「個人でやってクリアがあって完結」するものではないという視点から見ても、オンラインゲームは社会と同じ(終わりなき旅)。人間として社会の中で生きていくと、ゴールはなく、死ぬまで考え続けなくてはいけない。死ぬまで自分の役割や価値を問い続けないといけない。
■人間はコミュニティの中で役割を与えられると「ものすごく生きがい」を感じる。「ここに僕がいることには価値がある」と思う事ができる。
それがゲームの世界であろうと学校や会社であろうと同じこと。
例えば、外資系コンサルの人は「今まで自分が関わって築き上げてきた一流の仕事をやめてしまうと、自分の価値が下がる」「自分の社会的価値がなくなる」という強迫観念から、厳しい仕事であっても身体の限界まで働いてしまう。(その結果、ワーカホリックやうつ病に)
■脳の認知構造としては、リアルの世界だろうがオンラインの世界で役割を与えられていようが感覚は一緒。「会社で課長になる」のと「ゲームの世界でランクが上がる」のは一緒の感覚で認知されるのでは。
■(依存症・病気の)入口がゲームである、ということが問題ではない。自分の体調を鑑みて、仕事もゲームもコントロール出来ればワーカホリックやゲーム依存症にはならない。それが出来ないごく一部の人が「極度にそこにだけ自分の居場所を見出す」ということが危険→ゲーム自体が危険なのではなくて、そいういうスタンスが問題。
《大島薫さん》
■(実際にゲームを長時間やっていた身の実感として)オンラインゲームは「社会」と繋がっている。ギルド(チーム)を組んでゲームをしていると「管理職」をしている様な気持ちになる。(モンスターをどうやって狩るかの指示をメンバーに出したりするため)自分の役割が与えられているので、「使命感」からゲームをする様になる。
《八木先生》
■「帰属意識」からゲームをする。家庭や学校での著しいトラウマ体験がある場合、現実世界では苦しさを誰にも言う事が出来ないが、ネットの世界ではその苦しさを承認される。
気になった方は実際に映像をご覧下さい。
オンラインゲームに夢中になって体調を崩す方々を、多くの人々は笑うかもしれません。が、彼らにとってみれば、そこにはれっきとした「社会」があり、彼らはその一員であり「一員としての役割を放り出すことはできない」という使命まで感じている模様です。そのコミュニティが世の中のためになっているかどうかは別として、そうした意識でゲームをしているということです。
仕事で体調を崩すまで働いてしまう方々においても、そのマインドにおいては似たものがある。
で、私はここからどんなことを感じたか。ちょっと飛躍しているかも知れませんが
「自分が社会の一員である」「コミュニティに所属していて、役割を与えられている」「使命がある」「やらなければいけない事がある」
ということは半分くらいは「幻想」、「バーチャル」なのではないかということです。
つまり、自分がそう信じているから、そこに存在している。信じたいから、そこに存在している。それは必ずしも「絶対的なモノ」ではないということです。
何が言いたいかというとそれは「一員であることをやめようと思えば、やめられる」「コミュニティから離れようと思えば離れられる」ということなのです。
「そこから降りてしまったら自分の社会的価値がなくなる」という考え方は絶対ではないのです。
ゲームばかりしている人を見て多くの人は思うでしょう「ゲームなんてやめれば良いのに」。躍起になって働いている人を見て思うでしょう「少しは休めば良いのに」。
「休めない」「やめるわけにはいかない」「自分に使命はこれだ」と思っているのは、案外自分だけかも知れません。
ゲームを一旦休憩したところで、死ぬわけではありません。
仕事を一旦休憩したところで、死ぬわけではありません。
そんなもんで人間の価値は決まるわけではありません。
決まってたまるか。
自分の価値を信じていて、やる気があって、使命感に燃えて、それで充実している時は良いのです。ちょうど良いバランス感覚で生きている状態なのだと思います。
「これが使命だ」と疑わないでいられること、決めたらその道を腹を括って歩むこと、価値があると信じられるものに向かって心を燃やすことは理想であり、素晴らしいと思います。
でも、それを窮屈に感じてしまう時、荷物が重く感じる時、やる気がなくなってしまった時、ちょっとだけ思い出して欲しいのです。
「その荷物は自分で作って、自分で背負っているのだ」と。
まりちゃんがタカラジェンヌになった時。
自分を取り巻く社会が急速に「武庫川コミュニティ」に変貌したために、生きるルールが全く変わってしまいました。そのコミュニティの外の人から見たら、分からないことだらけのルールです。例え、打ち明け話をしたところで「そんなくだらないルール、必要ないじゃない」「気楽に過ごしなよ」「気にしすぎない方がいいよ」と言われるのがオチ。でも周りから見たら大した事がないルールがれっきとしたモノを言う社会があったのです。
宝塚の塀の外では、日常が変わらずに流れていました。でも、自分が生きるその社会が、自分の全てだと思ってしまいました。
入りたくて入った場所ですから、泣き言は許されない。辛いと感じるのは自分が甘いせいだと思っていました。そして、そのルールは絶対で、そこで上手く生きられなければ自分の価値はないと真剣に思っていました。
だから、そこから「逃げる」ためにした事が沢山あります。
でも考えてみれば「それはいつでも手放せるもの」なのです。「いつでも手放せるのだ」と思えればこそ、「逃げる」こともなかったと思うのです。
それくらいの一線を置いた認識でいた方が、「強迫観念」に襲われることはかえってなかったのではないかと思います。
休むべき時に休み、頭をリフレッシュして、再びその社会の一員であることを冷静に認識し、意識的に仮面をかぶって役割を演じていく方が、社会との関係はうまくいく様に思います。
「絶対的なモノではない」くらいの距離をとった方が、逆説的に見て、社会やコミュニティと良い関係性を築ける。
だからなのです、
こんな風に思える様になったのは。
思い詰めて、この世界が全てだと思って、投げ出すことは出来ないと思って・・・無闇に自分をに傷つけていたあの頃のまりちゃんに言ってあげたいです。
さ、というわけで本日はこれ切り・・・是非、次回も逢いにいらしてください♪
ドタバタ武庫川ライフ、また続きます!!
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