まっさら
小さいときに、日中にわたしを預かってくれているお家がありました。
通っていたのは4歳くらいまでのことだったようで、記憶はとびとび。
そのとびとびたちは時々ふわっと浮かび上がるので、むかしのことなんだろうけれど、なんだかちっともむかしのことのように思いません。
その家のお姉ちゃんと、キョンシーの出てくる不気味なテレビを見るのが怖かったこと、
その家のお母さんと一緒に自転車に乗って畑に行った午前中のことや、青空の下じゃがいもの葉っぱが生い茂っていたこと、
赤いスモックを着て黄色のスコップを掲げて妙な顔をしたわたしの写真入り年賀状が棚に飾られていたこと、
近くの文房具屋さん、そのファンシーな包装紙をまじまじ見つめていたこと、
隣りに住んでいるひとり暮らしのおばあさんのがらがらした声と大きな目、
ローラースケートを履いてぐるぐる回って歌う人たちのテレビを見たこと、
庭にアロエが生えていて、かゆいときなど、ときどき茎をぽきっと折って、その液を塗られてしみたこと、
庭にときどき猫が来たこと、
甘い卵焼き、
裸足で踏んだ床の鳴る音。
たぶん、久しぶりに預かってもらったときのことだろうけれど、ある日、家に上がると、居間の大きな座卓の上に “お絵描き帳” が置いてありました。
まっさらの、新しいもの。
「まりちゃんはお絵描きが好きだからね」
とその家のお母さんは言いました。
そのとき、じぶんが「お絵描きが好きなこと」が、他の人からも見えていたんだと知りました。
わたしが目の前で何を “しているか” じゃなくて、何を “好きか” っていうことが、他の人にもわかるんだなあ。
そして、うまく言葉で捉えることはできなかったけれど、大きなすごい人だなあ、というように感じました。
久しぶりにわたしが来ることになって、わたしのことを考えて、絵が好きだからお絵描き帳をわざわざ買いに行ってくれて、それを座卓の上に置いて準備していてくれた、っていうようなことを想像して、感激したから、そんな風に感じたんじゃないかと思います。
それから、同じ日のことなのか違う日のことなのか分かりませんが、お家に着いてひと息ついたころ、ダイニングテーブルのところで、
「お昼ごはんの買い物に行こうか。何が食べたい?」
とお母さんは尋ねました。
わたしは「卵焼き!」とこたえました。
その家のお母さんの作る卵焼きときたらそれはそれはおいしくて、わたしにとってはとんだごちそうだったのです。
「えっ、卵焼き?・・・卵焼きだけ?ほかには?」
と拍子抜けしたようにお母さんは聞きました。
彼女にとって卵焼きはあんまりにも “普段” のなんでもないものだから、せっかく作ってあげるにはあっけなくて、ひょっとしたら少し大きくなって久しぶりに会ったわたしが遠慮してそう言っている、と思っているような、拍子抜けの様子でした。
けれど、わたしにとって彼女の卵焼きときたら本当に特別なので、「卵焼き」以外の返事は待っても出てこないのでした。
それから二人で最寄りのスーパーへ行き、買うものは卵と牛乳くらいのもので(ひょっとしたらそれも冷蔵庫にあったのかもしれないけれど)、お買い物がすぐに終わってしまいます。
店のなかを歩きながらいろんな食材の前で「ほんとに卵焼きだけでいいの?」「スパゲッティはどう?」とか、お母さんは何度も確認してくれるのですが、わたしの口から「ピザ」とか「ハンバーグ」とかいう言葉が出ることはありませんでした。
家へ戻り、少しすると、できたての、ほかほかの卵焼きとごはんが目の前にやってきました。
願いが叶ったわけです。
まったくもって、おいしい卵焼き。
今日の卵焼きはなにかのおかずと一緒じゃないから、お皿の真ん中にたくさんのっています。
やっぱりごはんがもりもり進みます。
こんなにおいしい卵焼きをつくれるってことが、このお母さんにとってはちっとも特別なことじゃないのかな?って、つくづく不思議でした。
その家のお母さんは、わたしが高校生のときに亡くなりました。
いまのわたしときたら、彼女が好きなことはなんだったのか、わからないのです。
忘れているだけなんだったら、よっぽど良いのだけどなあ。
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