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私たちは生まれた時からずっと全体なのだ 分けられないし分離なんてしていない

私たちは生まれた時からずっと全体なのだ。この視点をもつことは、より楽に生きるための知恵であると同時に、真理でもあります。

私たちは、常に、既に、完全であるということ。

この完全性というのは、思考が作り出した、つまり、頭で考えた完全性ではありません。思考のいう完全性とは、不完全さを取り除くことによってもたらされる完全性だからです。今は不完全だけど、いつか完全になるという意味の完全性です。

そこには、完全になるという目的を達成するために、なんらかの動きが必要になります。努力といってもいいかもしれません。目的は未来にあるためにそこには距離があるため、すなわち、そこには時間が存在します。したがって、今このときは、いつも完全ではないとなってしまいます。

これに対して、前者の完全性とは、私たちに既に内在している完全性のことです。私たちそのものであるところの完全性。生命のことです。エックハルト・トールのいう、大いなる存在のことです。不完全性を受け入れて、それさえも内包する完全性のことです。

私たちはみんな、本来、人間らしい不完全さを持っています。それはユニークで、どこかおかしなところがあって、これが私だというような他と置き換えることのできない、愛すべきところがあって・・・。これこそがリアルで、生命そのものの表明だったりします。

私たちは生まれた時からずっと「これ」なのだから、「これ」になろうとする必要はない。

この話をするときに、よく用いられる「大洋と波」のたとえがあります。波である私たちは、大洋から分離しているように感じるけれども、実際には、生まれた時から一度も分離したことはないというものです。

生まれた時からすでに完全なる大洋なのです。すでに全体なのです。波は常に、すでに、完全なる大洋の表現なのです。

私たちには、大洋という共有される本質があり、それと同時に、個々のユニークさを内包しています。どこにも権威性のようなものは存在しません。

つまり、個々のユニークさを追求する時に、そこに正しい方法だとか間違った方法などなくて、もうそれは冒険でしかないのです。

それなのに、悟りには道があると考え、そこからそれることを恐れる人がいます。自分が悟るために正しい道にいることを、確かめなければ気がすまない人がいます。悟りを長い旅の目的地だと考える人がいます。

そのようなやり方は、誰かの道を後追いすることを意味します。

ジョーゼフ・キャンベルは次のようなことを言っています。「もしもあなたの前にある道がはっきりとしたものであれば、それは誰か他の人の道であって、あなたの道ではない」

誰かが舗装した道は、悟りの道ではないということです。

今このとき、今このとき、・・・この連続が道なのです。だから、あなたにどんなことが起きても、それがあなたの道だということです。

そこを受け入れるということ。

この瞬間にいる限り、あなたを道からそらすことはありません。道は、どんなことが起きようと、この瞬間にあります。

今このときに現れ来るもの、たとえそれが、痛みであろうと、恐れであろうと、悲しみであろうと、それがあなたの目の前の道なのです。

あなたは光であるということ。これが悟りが意味するところです。あなたは道を照らす光、意識の光そのものです。

その光の中に、思考が現れ、感覚が現れ、感情が現れる。

あるときは、痛みの感覚が現れては去り、あるときは、疑いの気持ちが現れては去る。その他あらゆるものが現れては去る。

ここで、ある問いが浮上します。

これらの現れは、いったい誰に現れるのかという問い。すなわち、私とは誰なのかという根源的な問いです。

ここで私たちは、意識そのものとしての私を知ります。現れては去るものに気づいている意識。

私とは、この瞬間を照らす光であることを知ります。

この瞬間に、何が現れようと、それは光に照らされます。あなたであるところの光に照らされます。意識の光に照らされます。

思考、感情、感覚・・・これらすべてを照らすもの。それは気づいている意識。それは様子や状態、ありさまではない。時間の中に存在することはできないものです。

あなたであるところの、ずっと今にある光です。


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