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「あえての罵りワーク」自分に寄り添うってどういうこと?

(写真は我が家のハリネズミです。うちにきて4年目、ようやく警戒心の緩んだ姿を見せてくれるようになりました)

自分に寄り添うといえば、どんなイメージでしょうか?

自分に優しくする、自分を否定しない・・・私はそんなイメージを抱きながら、自分に寄り添い、自分の味方でいる生き方を目指してきました。

「目指す」と書いたのは、それが自分にとっては簡単なことではないからです。

確かに、自分のことを全体的には「好き」と言えます。でも、受け入れ難い部分や、好きになれない部分もたくさんあり、自己否定に襲われることも珍しくありません。

10年ほど前、心理カウンセラーの心屋仁之助さんが「ダメな自分でもいい」「〇〇(受け入れ難いこと)でもいい」と唱える手法で人気を博していました。

当時は映画『アナと雪の女王』の影響で、「ありのまま」という言葉も広まり、私自身もその流行りに乗る形で、「そのままの自分でいい」という「ありのまま」を取り入れ、自分を肯定しているつもりでした。

けれど、どうもしっくりこないのです。(しっくりきてるフリはしていました笑)
※心屋式のやり方を否定したいわけではなく、上っ面でしか使っていなかったということです。

先日、ふと過去の「やらかし」を思い出し、自分を責める言葉が湧き上がってきました。いくら「ダメでいい」と呟いてみても、自分を責めたり罵ったりすることは、私にとっては息をするように自然なことなんです。

いつもなら「別に恥ずかしいことじゃないよ」とか「あの時は仕方なかったんだよ」「気にしなくてもいいよ」と、否定に同調せず、自分に肯定の声がけをするのですが、その時は違いました。

「そうだよね」「恥ずいよね」「やらかしたよね」「生きる価値ないよね」と、けちょんけちょんに自分を罵ってみました。

一通り自分を罵倒してみると・・・「でもいいんじゃん?そんなあんたでも嫌いきれないよ」という言葉が、なんとも言えない温かい感情とともに、自然に出てきました。

その時の満足感と言ったら・・・!
「ようやく否定せず、遮らずに私の話を聞いてくれたんだね」と嬉しかったのです。

10年かけてようやく気づきました。「ぬるい慰めの言葉が欲しかったんじゃない!自分の中の羞恥心や自責の念を、そのまま外に吐き出したかったんだ!」と。


「どんな自分でも受け入れる」という言葉で、自分に「バツをつけていないフリ」をしても、実際の頭の中は自分を罵倒する声でいっぱい。自分の内にある矛盾や葛藤や嘘にも実は気づいている。そんな中でいくら言葉で「大丈夫」と言ってみたところで、全然大丈夫ではないし、響くわけがないんです。

出てくるもの全てにマルもバツもつけず、ただ耳を傾け、根気強く付き合う。そういう寄り添い方を必要としていたんだと気づきました。

私はこれを「あえての罵りワーク」と名付け、時々実践しています。


先日友人が、大切な人にとって自分が「役に立っていない」と無力感を感じているようだったので、「(自分のことを)気が済むまで役立たずって罵ってみたら?」と提案してみました。

もちろん、「え?あなたってこんなに役に立ってるよ!?素敵だよ!!」と伝えることもできます。でも本人が納得しなければ、外からの声は届きません。もちろん、その友人の自分に向き合う姿勢を信頼してのことで、誰にでも勧めるわけではありません。


「ことだま」という言葉もありますし、「言葉(思考)が現実を作る」という考えもあります。だからこそ、最初は形だけでも自分を肯定することで、やがて本当の意味で受け入れられることもあるでしょう。

でも、やってみてもどうも上手くいかない、嘘くさく感じるなら――「罵りワーク」を試してみるのも一つの手かもしれません。

その結果、どう感じるかはわかりませんが、私はこの「罵りワーク」を通して、寄り添いの形は人それぞれということを実感し、まさかの満足感や安らぎまで感じることができました。


一人では難しいと感じたら、お気軽にこちらもご利用くださいね!



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