■あってますか?間違ってますか?
「こうあるべきだ、強め」から
「そんな自分をゆるしてお金持ち*」
優雅な星へ導く
お手伝い心理カウンセラー・
マリチャンヌです。
わたしは現在、心のボタンのかけ違いを
心理カウンセリングを通してゆるめていき
未来を思い出す
お仕事をさせていただいています。
さて、お客様とのやり取りのなかで
「ご自身にしか分かり得ないこと」について
「わたしは、どうすればいいと思いますか?」
という、ご質問を受けることが
非常に多いです。
例えるなら
今、カレーを食べていて
口のなかにはカレーがあるのに
「私の口の中のカレーの味、どんな味ですか?」と
誰かに聞きたくなる時と似ていたかもしれません。
わたしは
「あなたご自身はどうしたい、はあるのですか?」と聞き直すと
そこは無言が多く
「わたしはどうすればいいと思いますか?」
と、返されることが大半です。
実はわたしも小さい頃から
こころが不安になると
『あってますか?間違ってますか?』と
他人にお伺いをたてる癖が出ることが
よくありました。
もし、いま、その頃のわたしに声をかけるなら
「何もしなくていい。
そのままでよかったんだよ」
そう言って
頭をポンポン、してあげたかったですね。
今日は
「あってますか?間違ってますか?」
のお話しを書きます。
よろしければ最後までお付き合いください。
わたしは、けんかの多いおうちに育ちました。
けんかしていなくても、
いつひっくり返るかわからない
不安定なイカダの上にいるような
心持ちで暮らしていました。
「今夜はお父さんが暴れませんように」
「お金の話経由で、金切り声が
耳に入りませんように」
願わない日はありませんでした。
夕食以降の時間が、
もし穏やかに終わることがあっても
「ギリギリセーフ!」に
滑り込んだような気持ちがあるだけで
心からの安心とは違ったものでした。
両親の離婚後、わたしも一人暮らしをするようになり
その気持ちは宙ぶらりんのまま
こじれきった末、
やっと心理講座や
男女性のワークきっかけで自分を見つめ直すこととなりました。
以降は、ひたすら自分の機嫌をとることに
気持ちを向けるようになり
ある日、気がついたことがありました。
自分のことを自分で決めるということが
わたしの中に根付かなかったのは
自分自身を待ってあげる気持ちが
育っていなかったことと
大きな関係があったのだな、と。
そういえば・・
乳幼児期からの心理性頻尿も
外側からの「YES」で
安心したいという思いでいっぱいになる時と
同時に出ることが多かったのです。
小さい頃からわたしのうちは
「自分はどうしたい?」と寄り添って聞く
コミュニケーションが
ほとんどありませんでした。
両親も、世間の常識、
こうあるべきの枠の中に
必死に自分を合わせていくことが
生きる術であり
「生きる居場所を得る手段」という
教育を受けてきたそうです。
ルーツを知ればそれはそれで
仕方がない部分もあるんですがね!
親もまた、ヒトの子。
わたしも、そっくりモデリング!
自分も当時は
正しさ、もしくは正解めいたものを
探していたつもりでしたが
本心は許可してもらうことで
不安を打ち消すためだけの安心が
ほしかっただけのようです。
損をしたくないという思いもありました。
あの頃は怖くてできなかったのですが
「自分はどうしたいのか?」の先にある
☆何が出てくるかはわからない
未知の海に飛び込む勇気
☆そのなかで泳ぐからこそ、気づけること
☆拾うものもある、経験という宝
わたしは
その一連を経験したことがないため
「その手前で起きた出来事」を見ただけで
安心安全が脅かされてしまうような
気がしていたのかもしれません。
今は、自分の気持ちを
誰かに尋ねたくなるときは
「わたしはいま、どうしたいの?」と、
自身に問いかける癖がつくようになりました。
どんな自分も、まる。
あっていいよ。
それがあるから
「今」のわたしに出会える。
今日もなかよし*
ありがとうね。