少年誌表現の悪影響を防ぐ教育コストは誰が払うべきか
この文章は誰に向けたものか
この文章は、フィクションが子どもの人格形成に影響を与えると考え、「やってはいけない」ことを教えるのは親と学校の役割だと考える人に向けたものです。
またこの文章は「フィクションが子どもの人格形成に影響をあたえる」という前提に立って書いたものです。人格形成に影響を与えるかどうかの議論は別の場所で扱います。
「親と学校が対応せよ」はアンフェア
「フィクションの悪影響は親と学校の教育で対応すべきであり、表現規制は反対」という意見を目にすることがある。だがこれは私にはどうしてもアンフェアなフリーライドに思えるし、思考停止にも思える。以下の問題にどう答えるか問いたい。
・対応コストを親と学校だけに押し付けていいとする理由は何か
・親と学校の対応が十分でなかった場合、どう解決するのか
少年誌を例にとると、出版社側も教育コストを払っていいし、表現の自由派もコスト払えばいいと私は思う。そうすれば表現規制の程度は抑えられはずだ。もし出版社や表現の自由派が「表現は守るが、悪影響を実際に防げるかどうかは管轄外」とするならそれは無責任だと私は思う。親と学校だけが対応せよというのは無責任だ。
何故PTAが規制を訴えるか。
それは現状フィクションの影響から子供を守っているのが親と学校だからだ。対応責任だけを一方的に押し付けられているからだ。
影響と抑止力を俯瞰する
子どもを悪影響から守るには、影響の大きさと教育による抑止力がバランスをとらなければならない。以下の数式を満たさなければならないと私は思う。
子どもの影響許容度 > 漫画の影響 - 教育による抑止力
悪影響の度合いが子どもの許容度を超えぬよう、教育によって抑止するということだ。子どもを守るには過激な表現を避けることで漫画の影響を下げるか、教育を充実させて抑止するかしかないのだ。
逆に言うと教育が不十分なら表現規制が必要になる。親の責任だと主張してみたところで、子どもは守らねばならないのだ。親のせいにして終わりでは無責任である。また当然表現だけが悪いというのも無責任だと私は考える。
ここで抑止力を分解する。
抑止力 = 学校教育 + 家庭教育 + 地域社会による教育 + 出版社による注意喚起
となると思う。
出版社の注意喚起は注釈やコンテンツ内で窘めるものを含む。
ライダーキックを真似て子どもが負傷するのを避けるため劇中で注意を呼びかける場面が挿入されたというようなことも当然含む。
この抑止力の総和が下がると表現は規制を求められるようになる。だから出版社と表現の自由派は抑止力を高めねばならない。
あなたも私も、子どもを守れる
出版社は先の注意喚起に加えて、地域社会の教育や学校教育に関わっていい。表現の自由派だって善き市民なのだから地域社会での教育に貢献すべきだ。
わたし達に何ができるか一緒に考えよう。でなければ表現は規制側に向かってしまう。
私たち大人は子どもを守らねばならない。家庭や学校の教育が行き届かない子どもも例外なく守らねばならない。
そのため時に少年向けの表現を抑えることを受け入れ、時に教育に関わるコストを喜んで払う。それによって確保した安心安全のもと、コンテンツを心ゆくまで楽しもう。
そして安全を達成できなかった場合には、自主規制という痛みを受け入れよう。
子どもたちのために影で身体を張って、笑顔で痛みに耐える、そういうのがカッコイイってことを漫画やゲームから学んできたわけじゃないですか、私たちは。
注: この文章はこちらのTweetを編集してまとめたものです。
注2: この文章は以下のTweetをヒントにして私の考えをまとめたものであり、文章の全責任は私にあります。