【小説】(8)限界集落に出戻ったら工芸職人の幼馴染と再会した話
銀に白鹿、春嵐
工房から母屋は庭続きに徒歩五秒といった近さで、軒先を伝っていけば雨でも濡れずに帰れる。
千世たち二人が住む離れは、工房を挟んで向こう側だ。
「晴嵐、ちょっど来なせ」
家の裏口を開けると、つる子が待ち構えていた。
「なんだべ?」
「ハルちゃん」
ふいに口に出された名前に、晴嵐は手に持っていた盆を落としはしないまでも、動揺のあまり食器がカチャカチャと鳴った気がした。
「……春鹿が、なした?」
「私の目はごまかせんよォ。帰って来てらね?」
答える前に、盆をつる子に押し付ける。
明るくない蛍光灯に照らされている食卓の椅子を引き、晴嵐はポケットから煙草を出した。
「……なんでわがった?」
かちり、と百円ライターの安っぽい音がする。
都会の男だったら、火を点けるのに純銀の重いライターを使うのだろう。
いや、そもそも都会の男は煙草を吸わないのか。
「あんた、昨日がら様子が変だべ。無口になってら。あんたの考え事すっどきの癖な」
「……マジ?」
「今日の昼間出でいぐどぎに、母ちゃの車さ乗って行ごうとしたべ? あと、小屋さ転がってるがぼぢゃとスイカ、どごかに持って行ぐべど袋にいれてんべ。いや、別にカボチャとスイカが惜しぐて咎めてるわけでねえよ。アレ、中割ったら腐ってるがもすれねから気ぃつけて」
「あ、そ……」
わずかに気が抜けて、ため息のように煙を吐き出した。
「ハルちゃん、いづまでいるの? 吾郎さも何も言わねげど。毎日仕事さ行ってらし」
「わがらん」
「わがらん?」
「いづまでいるかは、ほんに知らね」
「会社、そっだな長い休みさ取れたべか?」
「いや、会社はリモートでこごでもできるらひぐで。……その、ダンナどは……別れだらしい」
「あらま!」
つる子は肩を跳ね上げた。
「やんだぁ、どうすんの!」
がちゃりと音を立てて乱暴に食器の載った盆を置くと、つる子も晴嵐の向かいの椅子に滑り込むように腰をかける。
「どうするもなにも、どうもしねがら……。あの、春鹿さ、誰にも喋らねでって頼まれでるで、母ちゃもまだ村に人には……」
「りょーかい!」
つる子は両手を上げて、頭の上で丸を作る。
これでも晴男が表彰されたときや文化人の集まりなどでは着物を来て、その上品な佇まいと過疎村に似合わない器量で、白銀美人などと呼ばれたりもしているのだが。
「ただ、夜這いはちょっど待で」
「オイ、話聞げよ……」
「吾郎さ、今夜、家にいるべさ」
晴嵐は乱暴にベッドに寝転がった。
「っだぐ、母ちゃの能天気が」
仰向けに寝たときに、いつも真上にある天井の染みなのか模様なのかは、にらみ続けてもう何十年もなる。
春鹿が村を出て十何年、晴嵐はずっとここにいた。
その間に、自室の勉強机とベッドを買い替えた。ギンもギンではない。着ている服だってあの頃ものなんて一つもない。
晴嵐自身も変わっている。
それでも、襖はそのままだし、机もベッドもその配置は変わっていない。
だから、春鹿がこの部屋を訪れる機会があったら、「全然変わってない」と言い、遠い過去に懐かしむ目で微笑むのだろう。
晴嵐は起き上がり、部屋のドアを開けて叫んだ。
「母ちゃ、風呂あるべかー?」
「ああ、おいであるよー!」
階下から負けない大きな声が返ってくる。
明日は、銀を溶かして鋳造する大掛かりな作業になる。時間もかかるし、いつもと違い肉体労働だ。
早めに寝るかと部屋を出ようとした時、スマホが震えた。
*
背より少し高い場所にある窓を二回叩く。
数秒待つとカーテンが開き、瞬時に漏れた光に晴嵐は目を細めた。
「あのね、あんたね」
窓から顔を出す春鹿の顔は逆光で、かつ街灯のない真っ暗な農道を歩いてきた晴嵐は部屋のあかりになかなか目が慣れず、その表情もわからない。
が、呆れているのは声でわかる。
「小学生じゃないんだから今から行っていいかとか、せめて今から行くとかライン送ってこれるでしょ」
「送っでる間にこごにつぐだろ」
「いやいや送るのに五分はかからないから。最悪、歩きながら送れ」
「歩ぎスマホは危険だべ」
「せいぜい田んぼに落ちるくらいでしょ。で、何よ、こんな時間に。こっちはすっぴんにパジャマなんですけど」
「今朝と変わらねべ」
「……うるさいな……。事実、今朝と一緒だけど」
家は高床になっているので、中からは腰高の窓であっても、晴嵐からは見上げなければな
らなかった。
見上げた先がまだ眩しい。
「てか、冷えるなーとは思ってたけど、外、寒っ。冬じゃん。息白くない!?」
春鹿はそう言って大げさに息を吐いた。
「白いわげあっがよ、九月だべ」
「ってかあんた半袖!? バカなの? 寒くないの? ほんとに小学生並み」
「おめはすっかりなまっで。この雪国育ちが」
「人間、なんでも堕落するのはあっという間なのよ。帰省も冬は避けてたからね。まぁ、いいや。玄関回って」
指を示し、踵を返そうとした春鹿に慌てて声をかける。
「いや、すぐすむけんど」
「すぐ済む用事ならラインで済ませてってば。あ、父ちゃんはもう寝てるから気にしないで」
晴嵐の目の前の窓が、カラカラと軽い音を立てて閉まった。
晴嵐が玄関にまわると鍵は開いていた。
なんとなくそろりと引き戸を滑らせると、薄暗い土間で春鹿が冷蔵庫をのぞき込んでいる。その漏れる庫内灯が一番明るい。
「ちょっと飲んでかない? あんた、飲めるクチなんでしょ?」
「なんで」
「無限ピーマンに無限キャベツに無限きゅうりに無限ナスとか今日買った野菜で常備菜作り過ぎてさ」
「むげん……?」
「無限に食べられるって意味。何飲む? ビールでいい? お酒もあると思うけど」
「えーっと、こういうのはやばぐねぇの?」
「え? 父ちゃんいてるし。それに、確かに言われてみれば、今さら晴嵐とないなって、私も思ったわ」
「……それもそうだな」
晴嵐はようやくそこでつっかけてきた草履を脱ぎ、板の間へ上がる。
テーブルの上の新聞やリモコンを除けて、春鹿が色や形がまちまちの保存容器のふたを次々に開けていく。
居間のテレビはついていなかった。
春鹿が、取り皿と箸を並べながら、
「この家のお皿もなにもかもダサすぎてテンションあがんないわー。やっぱり食器送ってもらおうかな」
「送っでもらう?」
「ああ、元ダンナに。マンションにそのまま住んでるからさ」
「へぇ」
晴嵐は前に置かれた缶ビールを自分で開けてそのまま口をつけた。
「ちょっとー! 乾杯くらいしようよ」
春鹿が未開封のままの自分の缶をぶつけてくる。
一口飲んでから、
「で、あんたの用事はなんだったの?」
「おめ、明後日の土曜日さ仕事あんべか」
「今週いっぱいは休み取ってる。そもそも土曜日は休みだけど」
「俺は半ドン」
「半ドン……ってそういうシフトの働き方ってまだあったんだ」
「さっき、車屋がら連絡あっだ。で、昼がら見にいぐべ?」
「早速? 仕事早いな、車屋さん」
晴嵐は無限シリーズに手を付ける。
目には見慣れた、食べ慣れたものが、店で食べる味になっている。
酒を飲むときは肴なしで飲むことが多い晴嵐だが確かにどんどん箸が進む。無限とは言い得て妙だ。
一方、春鹿は取り皿を一切汚さないままで、
「そうだね。早い方が助かるし。連れて行ってもらえる?」
「んじゃ、仕事が終わっだら迎えに来る。一時くれかな」
「了解。くれぐれも近所に見つからないように頼むよ」
「あ、そういえば、母ちゃさバレてたべ」
「うそっ」
春鹿がむせる。
「俺さ言ってねえよ? 一応、近所には言わねえように口止めしたけんど、バレんのも時間の問題だべ」
「……まあ、それもそうだね。父ちゃんに嘘つかせてるのも申し訳ないし。やっぱ父ちゃんの生活リズム変わっちゃってる部分あるだろうから、いろいろ突っ込まれて困ってると思うし」
「なんだおめ、ようやく村で暮らしでいぐ腹括ったのが?」
「いや……なんというか、気負いがなくなって、どうでもよくなった? というか、隠れて暮らしていけないことに気づいた」
「ま、わざわざ言いまわる必要はねえだろ。自然に広まっでいぐのにまかせるぐらいでいいべ。まあ、村も昔よりはずいぶん他人に無関心になっでるし」
「私もそれなりにスルースキルはあるよ。てか、勝手に言わせとけって思うし」
「ま、嫌なごとあっだら俺に言え。なんとがでぎるこどはなんとがしでやる」
春鹿は軽く天井を仰ぎ笑ってから、
「なにそれ、なんとかできないこともあるんかい」
「そら、あるべさ。年寄りは言い出しだら聞がねし、聞く耳持たねし、女はつるむど手に負えねし」
不可侵領域を数え上げてみると、晴嵐にはどうにもできないことの方が村には多い気がする。
春鹿もそう思ったようで、
「じゃ、なんとかできることはよろしく頼むわ」
と全く当てにしていない口ぶりで言い、一旦話は終わったが、春鹿が二本目のビールを冷蔵庫に取りに行って帰ってきたとき、
「でも」
と付け足してきた。
「晴嵐は自分の立場を一番に考えなよ。晴嵐はずっとここで暮らしていくんだからさ」
「……ああ」
そう言って、晴嵐は一本目を飲み干した。