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恋人と別れた。苦しみのどん底から〜どうしたら「悲しみ」を克服できる?〜

久しぶりに、思い出した言葉がある。

映画「君の名前で僕を呼んで」からの一コマだ。

恋に悩む息子に対して、父親が投げかける言葉。

「心に痛みを抱えているのなら、それから目を背けるな。情熱があるのなら、それを殺すようなことなしないこと。自分の感情に冷酷になるな。私たちは、傷を負った状態から、できるだけ早く立ち直ろうとして、自分のあらゆる感情や考えを削ぎ落としてしまうことがある。しかしそんなことをすれば、私たちが30歳になるまでに、心はボロボロになり、全てを失ってしまうだろう。」

「人の心と肉体はたった一度しか与えられないものだ。そのことに気づく前に心は擦り切れてしまう。今はただ辛く悲しいだろう。けれどその時に感じた大きな悲しみを、どこかに葬ってしまわないように。お前がこれまでに感じた喜びをその痛みとともに、葬ってしまわないように。」

私はこのセリフを聞いた時、いかに今まで自分が自分自身の感情に厳しかったか、思い知らされた気がした。

なぜこのセリフを思い出したか・・・。

それはつい最近、恋人との別れを経験したからだ。

人生でこれほどまでに泣き崩れ、心が痛いと思ったことはない。

よりによって、こんなコロナの大変な時期に・・・とも思った。

自粛期間で、ただでさえ孤独な中、辛い痛みを忘れるために、無理に笑顔を作ったり、楽しいことを考えたりしてきた。

けれど、やはりふとした時に蘇る。

元恋人との思い出は、時に夢に見ることもあった。

(朝起きた時の絶望感と言ったら・・・)

「辛い」「悲しい」「孤独だ」「悔しい」「時間を戻せたら」

私は、繰り返し生まれてくるこの感情に、無理やり蓋をし、とにかく元気を繕った。

でもその結果どうなったろう?

その時に感じた悲しみや苦しみを覚えているだろうか。

あまりに何度も蓋をしすぎて、悲しみの中にあった喜びさえも忘れてしまってはいないだろうか。

自分の感情を嘘で上書きするな。

自分の中に生まれる感情はどうしたって抑え切ることはできない。

悲しいと思うことも、嬉しいと思うことも、全て頭でコントロールできることばかりではないからだ。

それでも「私たちは」なぜか明るく、元気でいることが一番だと思い込み、

自分が本心から感じた「悲しい」という感情に、無理やり嘘をついてしまうことがある。

悲しみを感じないように、無理やり押さえ込もうとすることもある。


けれど、無理やり嘘をついたらどうなるか。無理やり蓋をしたらどうなるか。

少し考えてみたい。

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↑あまりにも精神的に辛かったので、どうにか自分で自分を喜ばせようと、日常的に花を買い、生け始めた。もちろん手入れをしている時、花を眺めている時は楽しいけれど、悲しみ自体がスッと消えることはなかった。(何をしても事実と向き合わないといけない人生・・・つ、つらい。)

嫌な思い出は忘れられるのか。


人間は忘れっぽい生き物だから、きっとそのことをすぐに忘れてしまうだろう。

そして、忘れっぽいが故に、その時に感じた感情も、気持ちも、発した言葉も、きっと忘れてしまう。


「なぜ悲しいと感じたのか」

「どうして涙を流したのか」

「自分はあの時、何を考えていたのか」

「自分には何が必要だったのか」

「何が辛かったのか」

「何に喜びを感じていたのか」

以上、私が思うきっと覚えていた方がいい重要なこと。

もちろん、辛く悲しいと思う、経験の中にも微かな光や喜びがあったはずだ。

しかし、「悲しかった」という事実自体を全て闇に葬り、その感情に蓋をすれば、
その時に感じた、感情の一つ一つ、小さな疑問や考え、気持ち、喜びでさえも、全て闇に捨ててしまうことになる。

けれど、本当にそれでいいのか。

全て捨ててしまっていいのか。


全て捨ててしまった先に、一体何があるのか。

何も感じない心。

断言する。

もし、全ての感情や思い出を捨て去ってしまった場合、「何も感じない心」が出来上がるだろう。

悲しみも、辛いという気持ちも、喜びも、全て体から捨て去ってしまった場合、
ある意味では、無敵になるのかもしれないが、最終的には、感情に鈍感で冷酷な人間が出来上がるだろう。

感情を削ぎ落とすことに躍起になり、それゆえ精神はボロボロになり、疲れ果て、
結局のところ、悲しみをそのまま受け取るよりも、精神的に疲弊することになるかもしれない。

ありのままの感情と向き合いたい。

打ちのめされて、もう立ち上がれないと思うほど辛い事実にぶち当たった時、私たちは必死に回復しようとする。

できる限り早く立ち直れた方がいいと直感だけで考え、無理に元気を繕うこともある。

例えば子どもの頃、道路で転ぶものなら、
「転んでも泣かないの!」などと大人たちから言われた。

「泣き虫なんだから」

「もう大きくなったんだからそれぐらいのことで泣かないの!」

幾度となく言われてきただろう。

「残酷な出来事に直面しても、泣かずに元気に頑張らなければいけない」

私たちは幼い頃から、そのように躾けられているっぽい。

前向きになること、苦しみから立ち直ろうとすること、元気になること。

できるだけ早く回復できることが理想的で、いつまでもウジウジしていてはいけない。そう教わってきた。

なるほど、これらはいいことなのかもしれない。

楽しいことがあれば、人生に華があるように感じられるし、何より充実していると思える。

実際、偽物でも楽しさを繕えれば、悲しい現実を忘れられるのかもしれない。

作り笑いをすれば、そのうち本当に笑える時がすぐやってくるのかもしれない。

でも、私には「すぐ回復」できる能力はなかった。

別れてすぐ、毎日いろんな友達に何時間も電話をした。

お酒を飲んで(正確には飲みすぎて潰れた

お笑いを見たり、

本を読んだり、

料理をしたり、

無理やり楽しいことをしたが、かえって傷がえぐられるだけだった。

元気になったと思った次の日には、朝から泣いていたことだってあった。

早く回復できなかった。じゃあどうする?

結局無理だった。

別れた恋人をすぐ忘れることは不可能で、

「ああ、この痛みはずっと続くんだろうなあ」なんて思い始めた。

それでも、毎日沈んでるわけにはいかないわけで・・・。

だんだん落ち込むことにも疲れるようになった。

もう無理なら、この「苦しみ」「悲しみ」としっかり向き合ってやろう。

そう思い始めたことが私の中での大きな転機だったと思う。

結局、一度感じた悲しみは一生忘れられない。

それならば、

私はたとえ小さな「悲しみ」も、「怒り」も、「悔しさ」も


雨に打たれ続けて、立ち上がれなくなった時に感じた「辛さ」

ドアを叩き続けても、決して迎え入れてもらえなかったあの「屈辱」

世界で一番深い谷底に、1人でいたときのあの「孤独感」

全て抱きしめていきたい。

そして全て自分の一部として、覚えていきたい。

そう思う。

辛い感情の上から上書きした、見せかけの喜びは、結局のところ一時的な幸せでしかない。

なぜなら、その見せかけの喜びが、何かの拍子で消えてしまった途端、また辛い現実や思い出が顔を出すからだ。

辛いことは忘れてしまった方が良いようにも思えるけど・・・。

結局のところ、悲しい思い出を他の何かで埋め合わせたり、上書きしたりすることは、不可能なように感じる。

思い出の容量が大きければ大きいほど、完全に忘れられる可能性もゼロに近くなるかもしれない。

「忘れたいけど、忘れられない」

こんなことを多くの人が言うように、人間の脳はそこまで都合よくできているわけではないらしい。

それに「忘れよう、忘れよう」とすればするほど、

「思い出した」(あるいは、思い出してしまった)時の、

自分に対する罪悪感がものすごい。

「何をやってるんだ、自分は」

「考えるのをやめないと、いつまでもダメだぞ」

そんな風に自責の念に駆られる。

こうやって自身を責め続けていくと、自分に対してイライラしたり、ダメ人間としてのレッテルを貼りたくなる。


もうここまできたら、永遠に負のループだ。

それなら・・・。

ええい、この際、忘れようとする努力を一切やめてしまおう。

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↑現在、私の家の中は、ピアノの発表会後のように花でいっぱいになっている。ワンルームには少し多すぎたかもしれない。と思いつつも、その美しさに毎分うっとりしている(笑)悲しみはまだ心の中で消えないけれど、花はいつも綺麗。これは不変な事実。この考え方、唯一の救い。

悲しみと一緒に生きる。

ピクサーの有名な映画「インサイド・アウト」の内容によれば、

人間は「辛い、悲しい」と言う感情を完全にシャットアウトすることはできないらしい。

だけれど、そうできないことを悲観的に思う必要などない気がする。

加えて、シャットアウトする必要など全くないのでは・・・。

「悲しみ」「つらさ」を感じたからこそ、成長できた部分も多くあるだろうし、
危険を回避できたこともあったかもしれない。

そう考えれば、そう言った思い出、経験も人生の大きな一部であり、
決して忘れられない自分の人生の一つの要素なのだ。

「悲しい」と感じる自分の思考回路、感情を許し、それでいいんだ自分と
認めてあげることが、悲しみと向き合う最善の方法であるように思う。

認められる感情が「喜び」だけって辛くない?

「喜び」はあっていいけど、「悲しみ」はあってならない。

悲しみはできるだけ排除しないといけない。

こんな考え方はもうやめよう。

この文章を書いていて、素直にそう思えるようになった。

人はきっと、いろんなことを感じ、あらゆる苦難を受け止め、乗り越えているから、1日1日を生き続けられるのだ。

そして私たちが生きる1秒1秒の中には、いろんな気持ちや考えが詰まっている。

ある特定の状態だけを許容するのではなく、自らが生み出すあらゆる状態・感情を許す。

ともに生きていこうとする。

これこそ、波のように荒れ狂う自分の感情と向き合う方法なのかもしれない。

おわりに・・・。

元々は、ニュースで思ったことを書くのをメインの内容にしようと思っていたが、最近、自分の頭の中をグルングルンしているこの感情を、どうにかアウトプットしたいと思いこのnoteを書いた。

数週間前に経験したばかりの、人生で一番辛い「別れ」

医療現場で働く親友の悩みが、この記事のインスピレーションの元だ。

今回このnoteを書けたのも、こういう考えに至ったのも、

「失恋」を辛いと感じた自分がいたからこそ、そして親友が苦境の中でも頑張っているという事実を知られたからだ。

何気ない生活の中の出来事が、自分の考えをここまで強固なものにレベルアップさせてくれることにも気がつけた。

いろいろあるけど、なかなか充実した人生だと思う!


おわり。


*(おまけ)*

冒頭で紹介した有名すぎるこの映画。夏になるとみたくなる、オススメ作品。音楽と映像がピカイチの美しさ。


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