見出し画像

死ってなんだろう③

前回記事のつづき「死はなぜ怖いのか」について考えていきます。

死はなぜ怖いのか

「死ぬのは怖い」
私たち死を想像するとき、「怖い」という感情が先立ちます。
<死=怖いもの>
この意味について、これまで深く考えることはありませんでした。
なぜなら、それを当然のことだと思っているからです。

どうして私たちは「死ぬのが怖い」と思っているのでしょうか。


未知への恐怖

当たり前のことですが、今、生存している人は誰一人として「死」は未経験です。
また、「死」を経験した張本人からの経験談を聞いた人もいないはずです。

なぜなら、経験した人は死者だからです。
死人に口無し…
死んだ感想を聞くことは不可能です。


では、私たちは死の経験談を聞いたことがないにも関わらず、なぜ「死」を怖いと思うのでしょうか。


死への恐怖の理由の一つ、それは<未知>であることだと私は思います。


「死」がどんなものなのか分からないからこそ、怖い。未知への恐怖が、死への恐怖感を生んでいるのかもしれません。


ですが、これは死に限らず、誰でも未経験のことを実践するときには恐れや不安が芽生えます。特に、事前に何の情報も得られないようなことを、ぶっつけ本番で始めるときは不安や恐怖が増すものです。

例えば、

『5分後にオリンピックの開会式で、国歌斉唱をしてください。あなたに拒否権はありません』

と言われたら、どうでしょうか。

「歌えるはずない!」とパニックになったり、「ドッキリでしょ」と現実逃避するかもしれません。しかし、それが現実で、歌わざるを得ない状況だとしたら、どう行動するでしょう。

本当なら会場の下見や歌の練習に時間をかけたいところですが、本番は5分後。ぶっつけ本番。下準備の時間は一切ありません。
でも、国歌斉唱であれば歌えるかもしれません。小学校ぶりの歌唱だとしても、メロディーは何となく分かるし、歌詞は短い。鼻歌でもごまかせるかもしれません。不安があっても、不可能なチャレンジではありません。幸運なのは知ってる歌だということ。何とか乗り越えられると思い、ステージに立つことができるでしょう。


では、次です。

『5分後にクニャンピースのトルメロンパークで、タミトックメルリーをしてください。あなたに拒否権はありません』

と言われたら、どうでしょう。

まず、こんなことを突然言われたら、自分の耳を疑うかもしれません。
何て言いましたか?と、もう一度聞くでしょう。ほとんどの人は、何を言っているのか全く理解できないと思います。

しかし、よくよく聞いてみると、なんとなくクニャンピースという地名のトルメロンパークという場所で、タミトックメルリーといわれるものをする、ということが予想できます。
ですが、分かるところは、それまでです。
クニャンピースがどこなのかも、トロメロンパークへの行き方も、タミトックメルリーが何なのか分かりません。それなのに、タイムリミットはあと5分。
そうなるとまず「できない!」「無理!」という否定の感情が押し寄せ、一気に不安や恐怖が湯水のごとく湧いてきます。


これは極端な例ですが、私たちはこんな風に、未知のことに対しては不安や恐怖といったマイナスな感情が先立ち易いと考えられます。


他にも、身近な例で例えてみます。
例えば、
市役所に行く用事があったとき、地元に住む人なら困ることなくたどり着くことができます。

しかし、それが新しく引っ越したばかりの人だったらどうでしょうか。

同じ目的地に行く場合でも、
場所や建物を知っている状態と何も知らない状態では不安感が全く異なる

同じ目的地に辿りつく場合でも、知っている人と知らない人では不安感に差が出てきます。後者は前者に比べて大きなストレスがかかります。

このように、私たちは<知っている=既知>と<知らない=未知>とでは感情に大きな差が出てきます。


未知の正体を知る


他にも、このような場合を想像してみてください。


毎晩、23時過ぎになると部屋の天井からドンドンという大きな音が聞こえてきます。何年もこの部屋に住んでいますが、これまで、そんな音は聞こえてくることがありませんでした。
騒音も一度や二度なら気にしないかもしれません。
しかし、その日を境にドンドンという音は毎晩続きました。しかも、その音は昼間は聞こえず、きまって23時過ぎに聞こえてくるのです。
上の階の住人は、何年も前から変わっていません。それに、上の住人は夜の仕事をしているので、この時間は不在のはず。音を鳴らす人もいない時間に上の階からドンドンという音が聞こえる。無気味です。
これは、自分の耳がおかしいのか、心霊現象なのか…。色々なことを考えるたびに、音に対して恐怖感が増していきます。

音に悩まされはじめ一週間が経った頃、上の住人に会う機会があり、音のことを直接聞きました。
すると、「最近猫を飼い始めたため、自分が仕事に出たあと、猫が走り回っていたのかもしれない」と話がありました。本人も仕事に出ていたため、気づかなかったとのことで謝罪がありました。
それから、夜中のドンドンという音はほとんどなくなりました。しかし、それでもたまに、音がする時があります。でも、正体が猫だと分かってからは、「猫が走り回ってるんだな」と思うだけで、音に怯えることはなくなりました。


毎晩、正体の分からない音が夜中に聞こえてきたらと恐怖感が増すが、
正体を知ることで、毎晩、同じ音が聞こえても全く怖くなくなる

このように、正体を知らないということは恐怖感が増す原因になります。逆に、正体を知ることは、ストレスが減り心の平穏に繋がっていきます。

私たちにとって「死」は未知の恐怖です。
でも、その「死」を知ることができたら、これまで「死」に抱いていた恐怖や不安は軽減するはずです。

そのためには、私たちは未知の「死」をしっかりと知る必要があります。

その一歩として、
まずは、漠然とした「死」そのものの中身(正体)について考えていきたいと思います



死を時間軸で捉える

前回の記事で少し触れましたが、「死」はあくまで結果を表わしています。

当たり前のことを言いますが、生きている状態が終了したあとに、<死>という結果が訪れます。<死>が訪れて初めて、<死後>という状態になります。
つまり、死は【生】と【死後】の間の点となります。
<死>は私たちにとって到着点であり、通過点でもあります。

私たちが恐れる<死>の範囲はどこなのかを考えてみます。
例えば、
「死にたくない」
という言葉ですが、なぜ死にたくないのかを考えてみると、
①自分の人生を終わらせたくないから死にたくない
②肉体的精神的に死ぬことが怖いから死にたくない
③自分が死んだ後のことを考えると不安だから死にたくない
などの理由が考えられます。

これを時間軸で考えると、
①は<死>の瞬間そのものを恐れている
②は生存~死までの期間を恐れている
③は<死後>を恐れている

ということになります。

生存から死までの過程は更に三つの段階に分かれる


まずはじめに、②の時間軸「生存~死」までの恐怖について考えていきます。

死ぬのが怖い<生存~死までの恐怖>

生存~死ぬまでの期間に対して抱く恐怖は、自分の死に方に対する不安です。
人は「ぽっくり死ぬのが一番」とよく言います。
その言葉の裏には、痛みや苦しみなく死にたいという願望が表れています。
誰でも、痛みや苦しみがなく、安らかな死を求めています。
けれど、現実はそう甘くない。痛みに苦しみながら死ぬことの方が多いと皆思っているから、この言葉が出るのだと私は思います。

痛みに苦しみながら死ぬ
死は辛く苦しいものだ

といったイメージが<死>にはあります。
確かに、苦しみながら息絶える方もいるでしょう。しかし、すべての人がそうとは限らないと私は思います。


私が知る死の直前と死の瞬間の話


私が、仕事柄これまで経験した<死>を振り返ると、死の直前~死の瞬間は意外にも、人々が望む安らかで静かなものでした。

死の瞬間というのは、心臓が止まったり、呼吸が止まるなど、肉体的な機能消失の先にあるものです。
病や怪我などのダメージを受けると、体内では様々な戦いが起こります。身体を正常な状態に戻そうと必死に働き続け、全身の細胞たちがフル稼働しています。
しかし、その働きが限界に達し、これ以上の機能回復ができなくなったとき、体内の戦いは徐々に終結に向かいます。
もしかしたら終結という言葉より、朽ち果てるという言葉の方が正しいのかもしれません。
何十年も休むことなく働き続けた体中の細胞たちが、もう何もできないお手上げ状態になると、肉体は死に向かいます。
正常な状態に戻す力を失った身体は、悪化の一途を辿ります。


機能低下していく身体


全身の機能が低下してくると、意識状態が悪くなります。これは、肝不全、腎不全といった臓器の機能低下に伴い、全身に有害物質を外に出すことができなくなることや、体内の電解質の異常や呼吸状態の悪化などに伴う低酸素状態が原因とされています。「意識」とは、目を開いて会話できる状態が正常と言い、目も開けれず意思疎通が取れない状態は意識状態が悪化していると言います。意識が低下した状態では、大声で呼びかけ、身体を大きく揺さぶっても何の反応も示さなくなります。
この意識状態を確認するために、医療者はJCS(Japan Coma Scale)という評価ツールを使用しています。

JCS、数字が大きくなるほど悪化している評価となる

この表を見ていただくと分かるように、JCSⅢ-300(緑色の一番下)という評価が意識状態が一番悪い評価となります。
「痛み刺激に対し全く反応しない」
これはつまり、痛みを感じない状態=痛覚も消失している状態だと想像できます。この評価だけ参考にすると、意識状態が悪化してくると痛みも感じなくなるのでは?と考えるかもしれません。ですが、このJCSはあくまで他者目線の評価にすぎません。もしかしたら、本人は痛いと感じていても、肉体的に痛み反応を示す余力が残っていないだけかもしれないのです。その場合、私たちは「死ぬまでずっと苦しみ続けている」状態なのかもしれません。そんな死に際だとしたら、まさに想像している生き地獄同様です。痛みに苦しみながら死ぬなんて、「死ぬのは恐い」と思います。

私たちを死の直前まで苦しめる<痛み>とは、そもそも何のためにあるのでしょう。痛みさえなければ、もっと人は楽に生きられる。そんな風に思った頃はありませんか?
頭痛がなければ、仕事がもっとはかどるのに。
腰が痛まなければ、もっと軽やかに動けるのに。

痛みがなければ、私たちはスーパーマンになれそうです。
それなのに、なぜ痛みは存在しているのか。

それは<痛み>が、人体の危機を知らせる大切な防御機構だからです。


痛みや苦しみを緩和させる体内の機能


痛みの感覚がなければ、私たちは怪我に気づくことがありません。転んで骨折したのに、再び歩き始めてしまい、他のところを骨折してしまうかもしれません。背中を刺されたのに気づかず歩き続け、出血多量で助からず死んでしまうかもしれません。

<痛み>は命を守る上で必要な感覚なのです。
けれども、痛みは、ときに大きなストレスになり、かえって身体を危険な状態にしてしまう場合もあります。そんな場合に備えて、私たちの身体は、自分自身を守るための様々なホルモンが存在しています。



脳内麻薬<β-エンドルフィン>

脳が<痛み>をストレスだと認識すると、人間の身体はそれに抗おうと働き始めます。
その働きを担うのが、体の恒常性を保とうと作用する<抗ストレスホルモン>といわれるものです。抗ストレスホルモンはいくつか種類がありますが、今回はその中の<β-エンドルフィン>というホルモンについてお話したいと思います。

β-エンドルフィンは脳内で働く神経伝達物質の一種で、身体のストレスの低下と恒常性の維持に関連していると言われています。
β‐エンドルフィンの大きな特徴は、脳内麻薬と呼ばれている点です。エンドルフィンが放出されると、痛覚の伝達に必要な神経伝達物質の低下を引き起こし、痛みは感じにくくなると言われています。その鎮痛効果は、個人差はありますが、モルヒネのおよそ18倍から33倍といわれています。

さらに、エンドルフィンは神経伝達物質であるGABAの放出を阻害する作用を持っています。GABAはドーパミンの放出を阻害するホルモンです。そのため、エンドルフィンが放出されると、ドーパミンの放出も阻害されなくなります。ちなみに、ドーパミンは幸せホルモンと呼ばれており、意欲を高めたり、気分を安定させる効果があります。
つまり、エンドルフィンが作用することで、体内の痛みは減少し、気分は安定し高揚感を感じるようになるのです。

おそらく全身が機能不全に至るまえから、エンドルフィンは産生されており、意識状態が悪化したときは既に、痛みや苦しみから解放されている状態なのかもしれません。
こうして、私たちはエンドルフィンなどの抗ストレスホルモンのおかげで痛みも苦しみもない状態を作り出し、安らかな気持ちでやがてくる死を待っているのかもしれません。


死んでいく身体
人は、死に近づき始めると、全身に酸素を取り込もうと最後の力を振り絞ります。下顎を無意識下で大きく開き、胸郭を目いっぱい動かし、ゆっくりと大きな呼吸をします。
呼吸は、一呼吸した後、無呼吸になり、また一呼吸する。というように、いつ止まるか分からない不安定な呼吸に変わっていきます。
また、心拍も、一分間に60回ほどあったものが、死の直前には20回~30回前後で推移していきます。呼吸も、心臓も終わりに向かって準備していくのです。

この頃は、ほんとうに亡くなる方の周りには静かな空気感が漂い始めます。
息を吸い込む音だけが、部屋の中に響きます。
死の直前は、痛みや苦しみでのたうちまわることもなく、こんな風にただただ静かな時間が流れていくのです。これは多くの人がイメージしている死とは異なり、私たちが常に望んでいる「安らかな死」のイメージに近いと思いませんか?

苦しみながら死ぬというイメージの理由

私自身にも、死ぬ前は、痛みによって苦しみながら死ぬというイメージが漠然とありました。それは、実際に自分が目で見て得たイメージではありません。これは、恐らく、私が触れてきた創作物=メディアの影響だと私は思います。テレビドラマや映画・小説などで登場人物が死ぬ時は、ほとんどの人が痛みと苦しみを経て死んでいきました。

銃で撃たれて死ぬ場合も、即死の場合は脇役だけで主役級の役は痛みや苦しみを経て死んでいきます。サスペンスドラマで毒殺される場合も、喉をかきむしりながら「うぅ…!」とうめき、苦しみながら血を吐いて死んでいきます。刀で刺されたときも、膝から崩れ落ち痛みに晒されながら死んでいきます。
そんなフィクションの世界の影響から、死ぬときは<痛くて苦しそう>というイメージがついたのかもしれません。

私と同じような理由でこのようなイメージを持っている方も多いかもしれません。だから、私たちは「ぽっくり死にたい」というのでしょう。
痛みで苦しみながら死ぬのではなく、それを経験せずにあっという間に死ぬことを私たちは望んでいます。
かといって、私たちは、いつもの日常生活を送っている最中に、突然、命が終わることを心から期待しているわけではないのです。
ただ、最後は安らかに人生を終えたいという思っているのです。


死の直前は安らかな死を得られるかもしれない…が

これまで述べたように人は死ぬ前に痛みや苦しみから解放されている可能性があることが分かりました。

しかし、これはあくまで死の直前に限られる話で、死にゆく過程の中の<闘病から終末期>といった時期は、残念ながら痛みや苦しみで辛い思いをしている方も多いです。

例えば、癌の終末期の方は、癌性疼痛で夜も眠れず痛みでのたうち回り、感情のコントロールもできなくなったりと、非常に辛い時期が訪れることがあります。医療用麻薬で痛みをコントロールしたとしても、完全に痛みが消失するわけではありません。常に痛みにさらされると、人は心も疲弊していきます。そういったとき、患者さんは「もういっそ殺してくれ!」というほど、地獄の苦しみを味わっているのです。

しかし、そんな辛い苦しみがあっても、死が目前でない場合もあります。その場合、死ぬまで痛みで苦しみ続けることになります。ましてや、本人は望まなくとも、家族が延命治療を希望したとしたらどうでしょう。さらに、苦しみの日々が続く…かもしれません。

このように、痛みに苦しみながら死ぬという言葉は、どちらかと言えば、闘病期や終末期の状態といえます。
その時期の、痛みや苦しみは、不可抗力で降りかかる不幸ではなく、自分の行い(事前の準備)次第で回避できる可能性があります。
健康な時から家族と自分の最期について話し合っておくこと。
自分の望む最期になるよう、自分が準備しておくことが必要です。





まとめ

今回は死に対する恐怖の原因について考えていきました。
未知のものに対する恐怖
死のどの部分に対して恐怖を抱いているのか
死のイメージと現実の死の違い

についてお話させてもらいました。
これらはあくまで私の頭の中の整理事項であることが前提になっています。
しかし、死について考えることで、
死への漠然とした恐怖感が減少し、安らかな最期を迎えられるお手伝いができたらいいなと思っています。分かりやすくするために、今回から図など描き始めました。上達するまで時間はかかると思いますが、余裕があれば、今後も入れて行こうと思います。

今回、書ききれなかった部分 <死の瞬間の恐怖>と<死後の恐怖>については次回、お話していきたいと思います。

読んでいただきありがとうございました。



自分の最期は自分で準備する
穏やかな最期を手に入れるために必要なこと
ご興味ある方はこちらの本を読んでいただけると嬉しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?