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船に乗って旅立つ 三途の川編

「大きな船でお迎えにきたんだね」

病院で働いていると、多くの方の最期に立ち会います。
時には、否応なしに、何人もの患者さんが続けて亡くなることも…。

全身状態の悪化した、いわゆる危篤状態の方も多い病院なので、一日に何人も亡くなることもあります。救急外来に関して言えば、もっと多いのかもしれません。病院という場所は、人が助かる場所でもあり、人が死ぬ場所でもあります。

私の勤める一般病棟では、毎日患者さんが亡くなることはそう多くはありません。ですが、続くときは続く…もので、例えば、夜23時頃にお一人亡くなりになり、三時頃にまたお一人、9時頃にまた、その日の夜20時過ぎにまた一人亡くなる…というようなこともあります。

このように立て続けに、患者さんが亡くなるとき、
「大きな船でお迎えにきたんだね」
と、看護師は言うことがあります。


大きな船で迎えに来るとは


私は、看護師になって初めてこの言葉を知りました。私が新人看護師の時、数日の間で患者さんが立て続けに6人ほど亡くなったことがありました。
その時、先輩看護師が
「6人乗りの大船でお迎えにきたんだね。〇〇さん、寂しがり屋だったから、きっと天国行きの船にみんな一緒に連れていったんだよ」
と、言いました。最初に聞いたときは「船?」と思いましたが、天国行きの大船と聞いて、そういう表現なのだと気づきました。ただ、6人立て続けに亡くなった事実だけで見ると、どうしても不吉なことを思い浮かべてしまいますが、「寂しいからみんな一緒に船に乗った」という表現になると、極楽浄土行きのバスにみんなで乗り合って、新しい世界へ旅立ったのだと想像できます。苦しかった闘病生活を終えたとしても、一人であの世へ旅立つのは、きっとどこか不安や恐怖があるかもしれない。でも、誰かと一緒ならそんな不安も和らぐのかもしれないなと、思えました。

私の頭の中の「船に乗る」イメージは、とても幸福なものです。私の想像でしかありませんが、亡くなった患者さんのお部屋の天井から沢山の天女や仏さまが、光り輝く綺麗な船と一緒にお迎えに来てくれる。そして、亡くなられた患者さんの手をやさしくひっぱり、あたたかく船に迎えいれてくれます。患者さんは、その時、穏やかな気持ちで船に乗り込みます。でも、次に亡くなりそうな方が近くにいるのが分かると、自分だけでなく一緒に乗せてあげたい、もう少し待っていてくれませんか?と言い、みんなで一緒に船に乗って、天国に出発する。そんな「船」を想像していました。

東京国立博物館 阿弥陀聖衆来迎図

私の想像に近い絵が、こちらになります。「阿弥陀聖衆来迎図」と呼ばれるものです。「来迎図」とはWikipediaによると、臨終に際して阿弥陀如来さまが、現世に現れ西方極楽浄土へ導いている様子を描いたものだそうです。

しかし、この「来迎図」には私の想像する「船」は残念ながら描かれていません。阿弥陀如来さまは、蓮台や雲に乗って極楽へ導いてくださるそうです。

では、お迎えにくるのが「船」という話は、どこから来たのでしょう。


死後の世界へ行く手段が「船」である理由

長年、看護師の間でお迎えが「船」で来るという言葉で定着してきたわけですから、そのイメージが「船」になった理由は、どこかからきたのか、気になります。

「船」は、海や川、湖など、水のある場所の移動手段で使われます。死後の世界へ行く手段が、自らの足で歩むわけでも、馬に乗るわけでも、絨毯でも、雲でも、蓮台でも、宇宙船でもなく、「船」であるのはなぜでしょう。

「船で渡る」というイメージと死後の世界を結ぶものとして、ひとつ、三途の川というものが考えられます。

三途の川の「船」

死後の世界というと、それぞれの国や宗派で異なりますが、簡単に言えば天国、地獄などといった世界でしょうか。仏教的な見方をすると、死後の世界へ行くためには、「三途の川」を渡る必要があると言われています。

三途川は、現世とあの世を分ける境目にあるとされる川で死後7日目に訪れる場所だそうです。


三途の川には三種類の渡河方法がある

三途の川の伝承が中国から日本に伝わり、人々に広まったのは平安時代中期~末期と言われています。
Wikipediaを参考にしますと、三途の川を渡る方法は三種類あるそうです。

その渡り方は、善人は金銀七宝で作られた「橋」を渡る、軽い罪人は浅瀬を渡る、重い罪人は難所を渡る、とされていたそうです。
しかし、平安時代の末期になると「橋」を渡るという考え方が消え、その代わりに、全員が「渡し船」による渡河という考え方に変形したと言われています。

悪竜が住まう上に鬼に射抜かれる恐ろしい川


橋から渡し船に変化した理由

なぜ、「橋」を渡るから、「渡し船」に人々の思想が変化したのでしょう。

これに関しては自分なりに調べてみましたが、思想の変化についての理由はわかりませんでした。
しかし、この「渡し船」思想は、もしかしたら人々の救いかもしれないと私は考えています。

善人は「橋」を渡り、軽い罪びとは浅瀬を渡れますが、重い罪人は難所を渡るとされています。この難所は、急流で悪竜の住む恐ろしい川です。岩場に身体が打ち付けられ、身が引きちぎられ、竜に食われたり、溺れたり、苦しみながらも、対岸に渡るまでは、それを繰り返すというひたすらに、恐ろしい川です。

天国にも地獄にも行けず、荒波の中でもがき苦しみ続ける。そんな川を安全に渡る方法があれば、重い罪人にも、せめてもの救いをと、慈悲の心で考えられたのが、「渡し船」という思想だったのではないでしょうか。

平安時代末期には、この「渡し船」という思想が広まったと言われています。そして、その後、室町時代になると、更に具体的な「渡し船」の思想が加わります。

それが、六文銭です。

三途の川で六文銭を支払うことで、誰でも「渡し船」で無事に川を渡ることができるようになると、思想が変化していきました。

恐ろしい川に身を投じず、善人と同様、濡れることなく対岸に渡ることができれば、一安心、かと思いきや、じつは、まだまだ油断はできません。

三途の川を無事に渡った先には、まだ、恐ろしい妖怪たちの審判が待ち受けていたのです。


三途の川を渡った先に待ち受ける懸衣翁と奪衣婆


身ぐるみはがされ泣いている人たち


三途の川の対岸には、懸衣翁と奪衣婆と呼ばれる老人のような妖怪役人がいます。彼らは、川を渡った者から衣類を剥ぎ取り、衣領樹と呼ばれる木の枝にかけ、その枝の垂れ具合で生前の罪の重さを計るとされています。

しかし、なぜ衣類で、罪の重さを計るのでしょう。


なぜなら、三途の川を渡る時、善人は「橋」を渡り、軽い罪びとは「浅瀬」を渡り、重い罪人は荒れた川を渡るためです。

つまり、罪人は、川を渡るため衣類が濡れて重くなっているから、その重さで罪の重さを計るのです。

荒れた川を渡れば、もちろん、ずぶ濡れです。

しかし、このシステムに穴をあけたのが「渡し船」でした。

この妖怪たちは、三途の川に救済「渡り船」システムがあることを知らないのでしょう。どれだけ重い罪人であっても、六文銭を払い渡り船で渡れば、衣類は濡れません。
つまり、生前の罪の重さが正しく計れないのです。

三途の川の妖怪さえも、騙す救済「渡り船」システム、なんとおそるべし。

ですが、なんだか、こんな風に妖怪を騙してしまうなんて、更に罪が重くなる気がします。

しかし、どちらにせよ、妖怪たちの審判を受けたあとは、エンマ大王様の裁判が待っています。
ですから、この裁判で、結局はズルはばれてしまうわけです。けれども、六文銭を支払い渡し船にのり、三途の川を渡れるのなら、それに越したことはないのかもしれません。だって、恐ろしい川での竜に食いちぎれられるような恐ろしい経験はしなくて済むんですから。


船は人々を救済するシンボルだった…?

そんなことを考えると、三途の川の「渡し船」思想は、やはり人々が苦しみから逃れるための救済思考から生まれたように思うのです。


つまり、三途の川の渡し船は救いの船であるとも言えます。

もしかしたら、そのイメージから、あの世へ行く手段として『船』が結び付いたのかもしれませんね。
他にも、輸送手段として、大勢が乗り合いできるものが、舟だったことも関係しているかもしれません。
あと何百年と経ったら、舟ではなく、車や電車で迎えにきた、という表現になっているかも。なんて思いました。



今回は、死後の世界へ行く手段が「船」である理由を三途の川に関連させて考えてみました。

船である理由はほかにもあるはずなので、今後も、調べていけたらなと思います。読んでいただきありがとうございました。

※懸衣翁と奪衣婆については、三途の川を渡る前に審判をする場合もあり、その際は六文銭を持ってると服を剥がされずに済むとか。無一文なら、確実に剥がされるそうです。


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