自我否定はSMごっこ♡
いつもの通り、完っっっ全なる独り言、私の個人的な考えです。
自分人体実験の結果発表会。
今回は”自我否定”について書く。
(自己否定ではなく、自我否定。これについては後ほど詳しく。)
結論から言うと、
自我否定、否定の話ではなく、
自我否定、肯定の話。
「自我否定さいこおおおおおおう!YEAH!!あんたのおかげでここまで来れた!あんたのおかげでめちゃつよな魔法を手に入れた!!」
ってなったお話。
単なる、私の感性の筋トレが、
自我否定やめられない、自分なんか大っ嫌い、消えたいと思っている誰かの心を少しでも軽くすることに繋がれば・・・という下心があることは、内緒にしておきます。
私は、自我否定、賛成〜〜〜
本題に入る前に。
最近、よく「自分を愛そう!」「自分を大切に!」とかって、もはや謳い文句のように言われている。
基本的に同意。
それの抽象度を下げた表現の一つとして、
もしくは「自分を愛する、大切にする」までに至るプロセスの一つとして、
「自己否定はやめよう。」(別名「どんな自分も受け入れよう!」)
があると思う。
これも、基本的に同意。
私は現在は、自己否定ほっとんど無い。
めっちゃ自分大好きだし、私の周りにいる人も大好きな人ばっかだし、おかげで毎日幸せ。
(「自己否定よくないよ。」を突き詰めると、「自己否定する自分も受け入れる。」なので、そう考えると言葉自体が溶けてなんの意味もなさなくなってしまうけど。今は置いといて。)
ただ、ここに至ったのは、自己否定も通り越した強烈な自我否定があったから。
「消えたい。」と本気で思った自分がいたから。
これを踏まえて、話を最初に戻すけど、
今日は、自己否定よりももっと自分を否定した、
”自我否定”の、肯定
について。
(自我否定についてピンとこない方へ、ご参考までに。私の自我否定に対する認識はこんな感じです。キーワードは「消えたい」。重っ!w)
あ。文中「自我否定」って書くけど、自己否定と捉えてもらっても大丈夫です。
では本題。独り言スタートです。
「嫌い」は「好き」の裏返し
まず、自我否定するのは、自分の可能性を潜在的に知っているから。
あと、自分にめっちゃ興味があるから。
だって、そもそも、興味ないどうでもいい人のことは、嫌いにならない。
それに、「何言っても無駄だな。」とか「かける労力無駄だな。」って思う人には、何か言いたくなる感情は湧き起こらない。
だから、「自分なんか大嫌い!」は「自分大好き!」の、
「私って本当にダメ・・・。」は、「私の力は、こんなもんじゃないはず・・・!」の、
同じように、「消えたい」は、「存在したい」の、
裏返しです。
「えっ・・・?私って本当は、自分大好き自分に興味津々人間だったのかあああああーーー!!!!」
ハイ、そうです。衝撃ですね。
つまり自我否定は、自分で自分を諦めていないことの現れ。
これは強さだと私は思います。
自我否定とは、一体どんな現象か
次に、「自我否定とは、自分の中で一体何が行われているのか」について。
一人の人間の中には、陰陽(女性性と男性性)の両方が存在する、ということを前提に置いた話です。
自我否定=繊細な自分(陰、女性性)と、強すぎる自分(陽、男性性)が、一人の人間の中で行っているSMごっこ。共依存。
(Maripediaより参照)
自我の存在を認識するために、自分で自分をいじめている。
そうすることで自我が認識できているので、OKなんです。(その段階では。)
主観だと「苦しい」になるかもだけど、SMごっこやってる二人を俯瞰してみよう!自分の中で何が起きてるかわからないから苦しいってのもあると思うから。
実は自分で自分をいじめたくて、いじめられたくて、やっているのである。お互い、それで満たされているのである。(好きね〜)
でもなー、その段階は、それやんないと、自我(人間)保てないんだ。
やめるとどうなるかって、多分、感情がなくなる。
感情なくすと、ある意味すべてが楽。でもそれは、人間を生きてないってことでもある。
それが鬱。
鬱は苦しいけど、鬱になる人が悪いのではないよ
よく、「鬱になる人は複雑、深刻に考えすぎ」と言われる。
なんか、それが良くないことのように捉えてる人もいると思うけど、私はそうは思わない。
「考えすぎ」って、悪いことじゃない。
「深く考えるのが好き」がちょっと屈折してるだけです(屈折って言っちゃってるw)
確かに、動物みたいにストレートな感情だけなら、鬱にはなりにくいかもしれない。(動物も鬱になるみたいだけど、今は置いておこう。そして動物をdisっているわけではない。大好き。)
複雑が故に生まれる苦しみもあると思うけど、
複雑だからこそ表現できることもあるし、心の面で理解できることも多いと思う。
だから私は、自我否定も、鬱も、人間らしくて美しいと思ってる。
私が鬱だった(と診断してもらった)時のお話
私は数年前、自ら鬱って診断してもらいにいったけど、診断もらう前にとっくに鬱だったと思う。(概念づければ、の話。どこからが鬱でどこからがそうじゃない、なんて、明確なボーダーラインなんかあるとは思ってない。)
その時は自分が嫌いすぎて、消えたすぎて、でも死にたいとはなんか違って、それに死ぬことは絶対に選べないとわかっていて、
それだったら感情なくなれと思ったし、なくなった時もあったし、このままなくなればいいなとも思って、なくそうと努めてみたこともあった。
でも、これらは今だからわかることだけど、感情なくすより、自分の存在を否定して「苦しい」という感情を生み出すことを選択した。
「消えたい」と思うほど自我否定して確かに苦しかったけど、「苦しい」を選択したのも自分で、
そうまでしてでもその時私にできるやり方で、人間としての心を生かしておきたかったかったんだと思う。
症状が身体に出ていろいろ影響をきたしたから、「これはさすがにしゃーねーか」と、診断をもらって地元に帰ってきたけど、そんな時でも尚、どこかで「鬱」というものを、自分を通して観察している自分がいた。
「鬱だけど鬱じゃねえんだ!!」
と、自分でもよくわからないが根拠のない自信を持って、心で叫んでいた。
結論。どーせ大丈夫だからSMごっこ楽しもう!
まあ、そんなこんなでなんのまとまりもないまま突如結論に入るけど、
自我否定も、鬱も、可能性という光の反転なので大丈夫です!
太陽の光が強いほど、映し出される影も濃くなるでしょ?あれとおんなじ!
自分の、光と影の両極の差についていけなくて苦しむことも多いと思うけど、
両極の激しさは自分自身の可能性、受容力、器の大きさってことだと考えてます!
だから自分の複雑さや、繊細さ、強さ、自分を責めるクセ、etc・・・、全然ダメなところでも治すべきところでもないと思う。
もしやめたいとしたら、
「自我否定やめようっ・・・(汗)」
って考えるよりも、
「あらー、私ったら、またSMごっこやって”私”という存在を認識しようとしているのね〜(笑)ウケる(笑)」
って思った方が楽に自然にやめれると思いますよ、ちょっとキモいけど(笑)
どーせ大丈夫なので、SMごっこ思う存分楽しもう!好きでやってるんだから!笑
なんにせよ、突き詰めたらそのうち勝手に反転します
反転したら自分愛しまくり周りに愛されまくりで、世界も反転します⤴︎
極限まで「消えたい」と自我を否定したことで、
意図的に自我を出し入れできるという便利な魔法も使えるようになりました⤴︎笑
それで、私は最初に言ったような、
「自我否定さいこおおおおおおう!YEAH!!あんたのおかげでここまで来れた!あんたのおかげでめちゃつよな魔法を手に入れた!!」
ってなってますなう⤴︎
おわり⤴︎