「教養」のある人
教養のある人は、具体例を豊富に使って話をする、みたいなことを山極寿一さんが著書に書いていた。
わたしが好きな話し相手も、具体例を巧みに盛り込んで、物語性を持って話す人だ。
オノマトペも嫌いではないが、単に、共感を求め合うばかりの、具体性のない、表面的なオノマトペだらけの会話は苦手だ。
あと、女性に特有と断定はできないが、何が言いたいのか本人は分かってる?みたいな、話の結末が見えない会話も苦手。
事の発端から話しが始まり、ぐるりと遠回りして、やっとのこと結末に辿り着くみたいな話し方をする人とか、共感という心の拍手が物足りないと、催促するかのように、余計に話しが長引く人は、さらに苦手。
理路整然と最短距離で会話したいわたしは、たぶん男性脳に近いんだろう。否、男性とか女性とか言うと、差別と言われそうなご時世だが、脳の作りが違うならどうしようもないだろう。
先日、職場でちょっとしたトラブルが発生。無事に解決したが、今後、同じことを起こさないように、同僚に次の勤務者に申し送りをお願いした。
こんな時、どんな風に伝えるか、頭のなかでカンペを用意するが、わたしのカンペは二行程度のシンプルさ。 カンペも不要かも。
ところが同僚のカンペは、トラブル発端から結末までの超大作がチマチマと書かれていたからビックリ。
そのカンペを、オノマトペを駆使し、感情を込めて語り、同僚の女性が合いの手を入れるように共感する。
わたしは結末を知っているからいいものの、もし、結末を知らずに申し送りを聞いたら、「で、何?」と聞き返すだろう。
∝∝∝∝∝
他人の脳内は見えない。それでも、発する 言葉や態度から、相手の脳内回路を推理することはできる。
わたしの脳内回路はシンプルな作りで、時限爆弾だったとしても、赤と青の2つのコードしかないだろう。
だからと言って、思考や精神までシンプルという訳ではない(筈)。よく目を凝らして見てみると、色んな色のコードを縒り合わせて、赤と青のコードが出来上がっている。
あちこちから引用してきた具体例のコードの縒り合わせ、集合体が自分なりのシンプルな思考を作っている。
具体例とは、経験則に近いものだろう。人は過去の経験から出来上がっているだろうし、褒められた経験ばかりではないが、それでもわたしは、こんな色とりどりの自分が意外と好きだ。
そうなると、わたしは教養がある人間ということだろうか?それに関しては、素直に首を縦にふれない。
どうも実体験やら、経験を通して得た知識や情報をうまく生かしきれていない。
経験の数では負けないけれど、より良く活用できていない人を「教養のある人」とは呼ばないだろう。
わたしのなかでは、「教養のある人」と 「気品のある人」は同義語かもしれない。
せめて、品のある人でありたいもんだ。