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みんなで悲しむのが正しい?

どうも日本人というのは、誰かが悲惨な目に遭ったり、悲しい目に遭ったりすると、みんなで悲しむのが正しい対処の仕方であって、みんなで悲しむことで絆が生まれると思っている気がする。

あくまでも、わたしの個人的な偏見だ。

だから、同僚のご両親が闘病生活の末、亡くなったと聞くと、故人の死を悲しみ、弔いの言葉を申し上げるが、それで終わりだ。

ところが、面識もない同僚の両親が死んだと聞いて、同僚以上に泣く同僚がいる。そんな風に親の死を悲しんでくれる同僚に感謝し、いっしょに泣く同僚ふたり。

「あなたは悲しくないの?」

そう聞かれて困るわたし。だって会ったことない。これから葬儀やら遺産相続、相続税の支払いと忙しくなるので、仕事のフォローやアドバイスはできる(両親の死後の処置で経験すみ)。

どうも悲しむのも喜ぶのも、みんなで分かち合う、気持ちを一つにするのが大切で、自分だけで悲しんだり喜んだりするのは「変」というのが、「和をもって尊し」とする多くの日本人の言い分に聞こえる。

いや、わたしの両親が死んだとき、あんたら泣いてないし。と、胸のなかで呟きながら、何も反論せずに距離をとった。

こんなとき、わたしって冷たいのだろうか、感情が乏しいのだろうか、人としてやさしくないのかな、と思ってしまう。

でも、泣きたいときは泣くし、嬉しいときは思いきり喜ぶし、腹が立ったら(底意地が悪い性格なので)徹底的に怒りまくる。

ただ、感情って自分のものだし、同じ場面に遭遇しても反応は百人百様で、国が変われば反応も変わる。

相手が悲しんでいるから、同じように悲しむ姿勢を見せないと悲しんでいない→冷たい奴認定、というのは短絡的だ。

わたしも相手の気持ちに寄り添って悲しむ。ただ、主体と同じ熱量で悲しんだりはせず、自分にできることは何だろう、と思考を切り替える傾向はある。

三人称の死なので、むやみやたら嘆き悲しむことはせず、客観的に事態を観察し、自分にできることを探す。

でも、この冷静な態度が、「どうして泣かないの?悲しくないの?冷たい人」と映る。

悲しむことに意味がない、とは言わないが、悲しむことは遺族に任せて、遺族を支えたいと思うのはおかしいのか。

元々、現実的だし、実用的、役に立つものが好きな性格。「きゃ~可愛い。お揃いで買おうよ~」なんてことはしない。

でも、多くの日本人は、気分や気持ちを共有することに価値を感じるようだが、わたしは別に、どちらが正しいとか間違っているとか言っているのではなく、人それぞれ考え方は違うんだよ、と同僚に言いたい。

でも、言わない、言えないではなく、黙るというやり方がある。すぐにムキになっていた若気の至りのわたし、随分と大人になった。