澱みなく流れる人流は清し
中土佐町という、小さな漁業の町にランチを食べに行ってきた。
10時過ぎだというのに、すでに県外から来た車がたくさん停まっていた。みんなマスクを付けて、静かに小グループで散策している。
町には、端から端まで歩いて100歩程度の、こじんまりとした商店街がある。そこにたくさんのお客さんがひしめき合っている。
でも呼び込みの声が掛けられる訳でもなく、店頭に並べられた魚の干物や野菜を物静かに買い物したり、買ったばかりの新鮮なお魚を捌いてもらって、店内で静かに食べていた。
どこにいっても「黙食」が習慣化。日本人のモラルの高さを、こんな田舎でもビンビンと感じることが出来た。
商店街の人混みの風景を写真に撮ったら、 以前と変わらない活気も熱気も感じられる。でも、実際の光景には音が無かった。
もちろん、みんな話をしたり、顔を見合わせ笑顔を交わしている。ただ、無闇に声を発しないことがエチケット、暗黙の了解になっていた。
小さな商店街の出入口にはアルコール消毒が置かれていて、誰もが当たり前のように手を消毒して商店街に入っていったし、出る時も同様だった。
これまで「人流」と一括りにして、人が動くことを「悪」みたいに言ってきた。確かに、人と人が接することで感染の機会は増える。ウイルスと宿主候補者が「こんにちは」だ。
でも、ウイルスと宿主候補者を"密"な関係にさえしなければ、わたしたちは候補のままで終わる。近寄りすぎてウイルスの宿主になることで、わたしたちは新規陽性者になって、次々とウイルスを広める手助けをしてしまうだろう。
商店街の「人流」は、澱みなく流れていた。「人流」を作る個々の人間には、正しい常識とか知識、健全な意識があるように見えた。
現状を「自分事」として捉え、どうするかを自分の「頭」で考える。自分で考えるから、「あれ?」となったら自分で修正が出来る。
だからといって、感染したのは自己責任とは思わないし、感染したことを正直に申し出てくれて、感謝の気持ちでいっぱいだ。
だから、もしもの場合、公費で治療も療養も受けられる。
アルコール消毒だって買ったら高くて、経費だって馬鹿にならない。「募金箱があったらお金を入れるのになあ」なんて考えながら、感謝の気持ちを込めて鰹のお総菜を買った。
今夜の夕食は、買ってきた鰹のお総菜とお茶漬けと、軽めにしようかね。