
文化的言語的に多様な子どもたちのことばと人生
もしあなたが今すごく苦労して身につけたことが、どれだけ努力をしても少しずつ自分の中から消えていったら、どんな気持ちになるでしょうか。不安、葛藤、納得のいかなさ、色んな感情を持つことでしょう。実は、これは「ことば」にももちろん関わってくるのです。
「母語がえり」―いつか消える言語としての日本語
「外国人住民・高齢者」という視点からは、この問題について認知していました。ところが、このドキュメンタリーを授業準備を兼ねて繰り返し見るうちに、ふと「これは今私が日本語の授業をしている学生たちの将来なのではないか」ということに気づきました。そして、不安がよぎりました。
もし、日本で老後を迎えたとき、彼らの生活はどうなるのだろうか。
認知症になって、苦労を重ねて習得した日本語が、頭の中から消えてしまったらどうしようか。
支えてくれる人や、言語が分からなくて孤立してしまったらどうしようか。
だからといって、家族のマンパワーや言語的文化的なコミュニティに依存するのも社会として目指すべき方向だとは思えません。やはり、人それぞれのもつ母語を1つ1つを存在するものとして承認していく不断の努力が求められるのです。
壁は乗り越えなければならないのか?
愛知県は外国人高齢者の増加に伴い、以下のようなパンフレットを作成しています。
私が特に印象に残ったのは、「外国人高齢者の介護 言葉と文化の壁を越えて」に書いてあることです。若いときは、さまざまな「壁」を乗り越えることができる。でも、高齢者になると、若い時のようには、「壁」を乗り越えられない。だから、「迂回路」を見つけて、「ありのまま、自分らしく」生きていけるように、と。
ここで改めて考えたいのは「乗り越える」は何を指すのか、ということです。
・日本人と同じようにふるまえるようになることでしょうか?
・日本の文化などを拒絶して自文化に固執することでしょうか?
若いときは、「ありのまま、自分らしく」ではいけないのでしょうか?
ことばの教育と子どもたちの未来
私達、日本語教師(あるいは学校教員)は、日本語能力の向上をすることで「壁」を乗り越えることを後押しをしてきたのではないでしょうか。日本語能力試験に合格すれば就職に有利だ、将来のためには大学に行った方がいい、だから日本語を勉強しなさい。もちろんそれが悪いわけではありません。
ところが、ずっとずっとその先に待っているのが、頭からことばが消えていく未来だったとしたら?「日本語ができなければ〇〇」・「日本語ができれば××」と私も言ったことがあります。必要悪だとも思います。
だけど、やっぱりそれだけではダメなんだと。生徒一人一人が自分のことばを、自分が育まれた文化を守ることが生涯にわたって「ありのまま、自分らしく」生きるために必要なことなのだと認識しました。