第15話:陽はまた昇る
さて皆さん、正月が開けてしばらく経ちましたが、皆さんのモチベーションはどうですか? 「バリバリモチベーションがあるぜ!」と返事される方がいたら、それは「すごい」ことです。 私の場合、正月ボケが治らず緩みっぱなしで、全然「ダメ」です。でも、そんな「なまけもの」の私がモチベーションが落ちてしまった時に思い出す話を今回してみようと思います。 熱意で会社を動かした「高野 鎮雄氏」のお話です。
高野 鎮雄氏は愛知県安城市に生まれでして、刈谷高等学校を卒業し、静岡大学に進学。その後日本ビクターに入社します。 それから順調に出世を重ねたものの彼が開発を担当していたのは「映写機」でした。
仕事に「優劣」はないと私は信じていますが、当時の ビクターの主力は「ステレオ」と「テレビ」でしたので「花形」とは言い難い部署ではあったのは確かだったそうです。
そう時は1970年。業界8位のビクターの経営は非常に厳しく、倒産までささやかれていた状況だったのです。そしてちょうどその頃、本社試作工場で「16 ミリ映写機」や「放送用機器」の開発に取り組んでいた純粋な技術屋であった高野氏に一つの辞令がおります。 それは、VTR 事業部へ移動し事業部長をせよというものです。
なんだ栄転ではないかと思いませんでした? 実はVTR 事業部は当時ビクター1の不採算部門で、ロケーションも本社ではなく横浜工場の片隅にある窓際の部署でした。そしてこの事業部長という職は、なった者は一年でクビが飛ぶといわれていた「露骨」な左遷人事だったのです。
そもそもVTR 事業部は、本社が設計した業務用ビデオを組み立て、企業やホテルなどに売って歩くという部署で、高野氏は自分のキャリアを生かしにくい状況でもありました。それどころか「主力商品」である「業務用ビデオ」にもさまざまな問題点があったのです。
まず値段、ビクターの「業務用ビデオ」は価格が120 万以上(現在の貨幣価値基準)で高すぎてなかなか売れないものでした。 そして品質、これも大変ひどくて、故障が非常に多く、2 台に1 台は返品されてくるという商品だったのです。
こんな悲惨な商品した作れない技術力しかなかった当時のビクターでしたが、VTR 事業から撤退しませんでした。それは次に訪れると言われていた「家庭用VTR の時代」に一縷の望みをかけていたからです。
1970 年当時、もしビデオデッキが「小型軽量化」され世界中の家庭に普及すれば5000 億円市場になると予測されており、大変魅力的なマーケットだったのです。しかし、そんな「大きなマーケット」を全世界の家電メーカーがほっておくわけがありません。当時は「家庭用VTR 開発」に各メーカーが「莫大な予算」をつぎ込み、開発にしのぎを削っていました。 そんな競争の中、「最も」家庭用VTR の開発に近かったのが「盛田昭夫氏がバリバリの全盛期」であった「ソニー」だったのです。
当時のソニーは大卒技術者の人気ナンバーワン企業でして、開発チームには100 人にも及ぶ超エリートチームが開発の一線を担っていました。そんな背景があったにも関わらず、高野氏はVTR 事業部で「家庭用VTR」の開発を始めたのです。
そのメンバーは高野氏が全幅の信頼を置く白石 勇磨氏(後述で詳細を説明)と梅田 弘幸氏、大田 喜彦氏というまだ20代だった工業高校卒の若者二人を合わせた3人で‥‥。そう「たった3 人」で始めた「プロジェクト」だったのです。
でも、いくらなんでも、、、と思われた方も多いと思いますが、 当時のビクターは「事業部毎の独立採算制」を取っていたので「大赤字」のVTR事業部は社員220 人の給料さえまかなえず、本社への借金は10 億円にも達している状態であったのです。だから、この3 人を割くことでさえ「至難の技」だったそうです。
もちろんこのプロジェクトは、本社には内緒の「極秘プロジェクト」として進行させていきました。そんなの当り前ですよね、赤字続きなのに「こんなこと」しているのがバレたら大変なことになりますからね。
でも残念なことに、その後ビクターの経営状況はさらに悪化します。 そこで経営陣は大幅な人員整理を断行、本社にあった「家庭用VTR 開発部門」は閉鎖。今後は新製品の開発をやめ、既存の業務用VTR の改良と販売のみを行うという決定がなれました。 そのような状況下であったため、それに伴い「家庭用VTR 開発部門」に所属していた一部(50 人)のエンジニアも高野氏のVTR 事業部に移動、営業をするよう会社から言われる始末でした。
しかしこれが「家庭用VTR 開発を極秘で推進していた」高野氏に幸運をもたらします。 なぜなら、ビクターには大正15 年に世界で初めてブラウン管に「イ」の字を映したことで有名な高柳健次郎という伝説的な技術者がおり、 移動してきた50人はその愛弟子だったからです(ちなみに前述の白石氏は、高柳氏の右腕と呼ばれたスーパーエンジニアです)。 これによって高野氏の「家庭用VTR 開発」は「一気」に進んだと言われています。
しかしいい話ばかりではありません。ビクターは5000 億市場の家庭用VTR市場さえ開発をあきらめる状況です。移動してきた50人を「すべて」開発に回すことはできません。それどころか本社は高野氏に「執拗」に約3割の人員削減を求められたと言われています。 ちなみに、この当時のVTR 事業部は悲惨そのもので、業務用VTR は在庫の山、毎月5000 万の赤字を垂れ流し、本社への借金は30 億円を超えている状態だったのです。 しかしそのような状態であったにも関わらず、高野氏は絶対に人員整理をせず、部員一丸となって「現状を打破する」ため頑張るよう努力したと言われます。
まず高野氏は、赤字を解決するため「システム開発部」という新しい部署を作りました。しかしこの部は「開発」と名が付いているもののこの部署の役割は「営業」でした。そう、この名前は「家庭用VTR」を部員一丸となって作っていくという気持ちを込め、「あえて営業部署に開発」という文字をいれたという高野氏の「せめてもの心遣い」だったと言われています。
しかし、この「開発にあぶれた技術者集団」は「すざましい力」を発揮します。 それまで業務用VTR と言えば「企業」や「ホテル」に営業をかけるのが常識であったのですが、 この技術者集団は、芸能人やタレント、日本舞踊のお師匠さんからゴルフ練習場、スイミングスクールといった新しいユーザーに業務用VTRを売りまくり「家庭用VTR」に必要な開発費を稼ぎまくったのです。 そしてそれどころか「消費者がどんなVTR を必要としているのか」マーケティングを行い、その結果が「ソニー」の牙城を突き崩したのです。
では「ソニー」を突き崩した「マーケティングの結果」は何だったのか?それは「録画時間」でした。 実は「テレビ」を見ているお客様の多くは、「映画」や「スポーツ番組」を後で録画して見たいと考えていて、録画
時間は最低2 時間は欲しいと考えていたのです。 それに対し「技術に偏り、カセットの小型化を考えていた」ソニーは、「β マックス」の規格を「録画時間が1 時間」としていたのです。
もう、わかりましたね?そう高野氏が発明したのはVHS(Victor Homevideo System)です。 IEEEのマイルストーン(日本だと八木アンテナ、富士山レーダー、東海道新幹線、クオーツ時計、シャープの電卓、VHS)に登録されるほどの発明を高野氏はやってのけたのです。
あまり長くなりすぎてもいけないのでここらへんで筆をおきますが、VHS にかかわるお話には様々な伝説があります。 例えば、松下幸之助が「ベータマックスは100 点満点の製品だ、しかしこのVHS は150 点だ」と語った話とか、、 VHS の試作機を「日立」等のライバル会社に無償で貸し出した話とか、本当に「涙腺」を刺激するエピソードが満載です。 興味がある方は「陽はまた昇る」という映画を是非みてください。多少、史実とは異なる脚色はあるものの、心が震え、もう一度頑張ってみよう! という気持ちに「間違いなく」なれますよ!!
ということで最後に蛇足のエピソードを一つ。 癌で亡くなられた高野氏でしたが、その棺を乗せた車が想い出の横浜工場へと立ち寄ることがありました。するとそこには社員全員が立ち並び「ミスターVHS・高野鎮雄さん、ありがとうございました」と書かいた横断幕を持って見送ったというそうです。しかも それは、会社の指示ではなく、横浜工場で一緒に働いた人の各々の判断だといわれています。