終わってしまった「トランスレーションズ展」を、自分なりに翻訳してみた
先週まで六本木の21_21DESIGN SIGHTで開催されていた「トランスレーションズ展 -『わかりあえなさ』をわかりあおう」に行ってきた。
開催期間の最終日、滑り込みでの鑑賞だった。
情報学研究者のドミニク・チェン氏が展覧会ディレクターを務めた本展では、その名の通り「翻訳」をテーマにした展示が催された。
ここでいう「翻訳」は、たんなる異言語間の意思疎通にとどまらない。
目で見たもの、触れたもの、聞こえた音、嗅いだ匂い、食べたもの、感じたこと、考えたこと、湧き上がるもの。
「わたし」が体験したあらゆる経験を情報の一つととらえ、それらを別の表現方法へと転写し、他者や世界とつながるための手段とする。
それが「トランスレーションズ展」の定義する、翻訳のすがただ。
そうした翻訳のプロセスには、必然的に「わからなさ」と「わかりあえなさ」がつきまとう。
人は、自分の頭で考えたことを完璧に表現できない。どれだけの努力を尽くそうとも、どこかにやりきれなさ、不十分さが残る。
ある日、美しい夕日を見たとしよう。あなたはその素晴らしさを、大切な人にも伝えたいと必死に言葉を探すが、なかなか良い表現が見つからない。
仕方がないのでスマホを掲げ、夕日の写真を撮る。後日あなたはその写真を大切な人に見せ、自分がいかにその光景に感動したかを必死に伝えようとする。けれど、あなたがその時体験した風の心地や日差しの温かさ、どこからか聞こえる子供の声やカレーの匂い、そしてそれらすべての刺激によって想起されたあなた自身の心象風景までは、到底伝えられない。写真をのぞく相手はきょとんとして、何を伝えたいのと訊いてくる。
あなたは困惑する。
どうして、わかってもらえないんだろう。
どうすれば、伝わるんだろう。
その方法が、分からない。
個人が経験した情報を、特定の表現で完璧に再現させるのは極めて困難だ。
ましてや、異なるバックグラウンドを持った他者同士が、不完全な意思疎通手段を通じてお互いを完璧に理解し合うことは不可能と言っていいだろう。
他者とはわかりあえない。自分のことさえ、わからない。
それが当たり前。
そんな中で、わかりあえない他者と少しでも分かり合うための、誰かと、世界と、つながるための手段。
それこそが、翻訳=Translationだと思うのだ。
イントロダクションを抜けて、最初の大きなギャラリーに入ると、部屋にはいくつものディスプレイと、真ん中にマイクを据えた台座があった。
観覧客の一人が中央に向かい、カメラに向けて言葉を放つ。
すると、言葉は中央のディスプレー上で言語の宇宙へ向けて旅立っていき、やがていくつもの国や地域に散在する、今まさに解き放たれた言葉の親戚たちが部屋一面に顔を表していく。
マイクに向かう人々は、ほとんどが日本語で話しかけていた。
しかし、僕が見ていた時に1人の女性が、マイクに向かって英語でメッセージを残したのだ。
そのメッセージは、日本語で言い放たれたそれらと全く同じ手順で、世界各地の同じ言葉とともに映し出されていた。
そうか。
何も「日本語で言わなきゃいけない」なんて決まり、どこにもないんだ。
僕は大いに驚かされた。
空に見える宇宙じゃなくて足元にある地球が動いているんだと、生まれて初めて知った時の気持ちによく似ていた。
目玉の展示を抜けると、いくつもの小展示が並べられた部屋へと続いていた。
「翻訳」とは、何も言語に限ったことじゃない。
アルファベットをモールス信号に置き換えてみたり、
頭の中で展開する思考を、文字じゃなく絵で表現してみたり、
何もかも分かり合えないサメと愛し合うために、匂いを使ってアプローチしてみたり。
翻訳の方法には、制約がない。
根本的に分かり合えないもの同士、たとえ部分的にであっても分かり合うことができれば、生きとし生けるもののあらゆる営みが「翻訳」となる。
「分かり合えないもの」は、必ずしも人間である必要性はない。
それは動物だったり、植物だったり、文化だったり、歴史だったり、自然や信仰だったりもする。
「トランスレーションズ展」で触れることができた展示のうち、僕が理解できたものはほんの一部しかなかった。
「これには一体どんな意味があって、これを通して見る世界は一体どんなものなのだろう?」
常にこうした「わからなさ」を内包しながら、一つ一つの展示に目を通していた。
さらに「これは多分こういう意味だろう」と分かったつもりのものについても、それが本当に意図を掴めているかは定かではない。
むしろこうした「わかったつもり」は、多かれ少なかれ必ず誤解や誤訳をはらんでいるものだ。
「わたし」が得た理解と「あなた」が得た理解が一致しているとも限らない。ほとんどの場合、それらはどこかしらに差異が生じているはずだ。
「わかりあえないものをわかりあおうとする手段」を、分からないままに分かろうとする。
展示を鑑賞するプロセスさえも、展示の一部だったとは。
知らず知らずのうちに、僕は"Translation"をしていたのだ。
既に終わってしまった展示の話をするのは、果たしていかがなものか。
これを書こうと決めた時、そんな懸念が浮かんだ。
読んでくれた方に「すごくよかったですよ!」とおススメしようにも、肝心の展示はもうやっていない。
まして、そこに展示されていたものを1つ1つ紐解いて解説できるほどの知識も観察眼もない。
じゃあなぜ、こんなものを書いて、あまつさえ世に出そうとする。
敢えて言うならば、これは僕という媒体を通した翻訳だ。
「トランスレーションズ展」という場所で体験したこと。
これを僕の感覚で、僕の思考で、僕の言葉で再現しようと試みる。
あの場所が提示したものを、実践してみせようと思ったのだ。
これを読んだところで、実際の展示がどんなだったか理解できないだろう。
いや、理解できるわけがない。
これは「あなた」にとって分かり合えない他者が、分かり合えないものを叙述しようと試みた形跡なのだから。
それでも、なんとか理解していただこうと、腕を振るったつもりではあるのですが。
もし期待にそわないようなら、それは僕の力不足、ということで。
あなたのちょっとのやさしさが、わたしの大きな力になります。 ご厚意いただけましたら、より佳い文章にて報いらせていただきます。