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「純文学はつまらない」という人へ

純文学の新人賞で有名な「芥川賞」は毎回といっていいほど賛否両論の飛び交う楽しい賞になっています。

純文学に対して、否定的な意見の大半はこの3つ。

  • つまらない

  • 意味不明

  • 文章が難しい

そう思います。若ければなおさら。私は面白いと感じるようになったのは30代になってからです。

そもそも純文学の定義とはなんでしょうか。歴史からたどるとわかりやすいです。

純文学は、明治時代(1868 - 1912)において、「学問のための文章でなく、美的形成に重点を置いた文学作品」として定義されました。

現実の負の面を捉えた「自然主義」が席巻します。主流は、自分の周辺のことを書き連ねる私小説となっていました。

明治時代に定義された日本の純文学は、暗いものだったようです。負の面を捉えているから内容が重くなりやすい。

旧時代の価値観だと、人間の本質は暗いものだとされていたのだから、楽しい内容にはなりえません。

明治末から大正(1912 - 1926)にかけては、自然主義の暗さに反発して「人道主義的理想主義」が誕生します。

そんな反自然主義と目された森鷗外や夏目漱石は、物語で構築された傑作を残す。のちに日本文学の規範となりました。

明治になるまでは、物語性の薄い小説だったようですね。大衆小説にくらべて面白くないのは、こういった歴史をもっているからかもしれません。

それでも、明るい内容かと問われれば疑問に思います。明治以前の小説はどれだけ暗いものだったのでしょうか。

大正末期から昭和初期(1926 - 1989)にかけては、「新現実主義」と称されます。

芥川龍之介が、「筋の面白さは、小説の芸術的価値とは関係しない」と主張します。
谷崎潤一郎が、「筋の面白さこそが、小説という形式の特権である」と主張して対立します。

この頃から、「大衆小説」が広く読まれるようになります。芸術性重視の作家たちは差別化を図るために、「純文学」と定義するようになりました。

こうして「純文学」が定着します。

つい最近の話ですね。争いのたびに枝分けがなされ、差別的に区別されていく。どの分野でも一緒ですね。

「人類の歴史とは戦争の歴史である」といわれるように、人は争わなければいけない宿命にあるようです。

面白さを追求した大衆小説に対して、芸術的価値を追求した純文学では、そもそも比べるものではないのでしょうね。

つまらないという意見は、当然の結果のように思えます。さらに、追い打ちをかけるように「純文学論争」というものがありました。

1990年代後半から2000年代前半にかけて「純文学論争」が勃発しています。

大塚英志が文芸雑誌の売り上げの低さを、その文化的存在価値の低さとみなし、笙野頼子がそれに批判することで引き起こされたものです。

「売れない純文学は商品として劣る」との主張に対して、「素人が文学にあらゆる意味で口を出すな」「文学の基準として売り上げを持ち出すな」と抗議をしています。

子どものケンカをみているようです。定義と論点がズレているため、議論にもなっていません。知性の高いであろう先生方でも、感情的になってこのような低俗な争いを繰り広げるのですね。

すこし脱線しました。

純文学がつまらないといわれる原因をまとめます。

  • 負の面を捉えた暗さがある

  • 筋の面白さにこだわっていない

  • 文体が難しく書かれている

  • ある程度の読解力を必要とする

それぞれの時代の主義主張によって文体が異なることから、純文学は哲学と似ています。

学問としてではなく、芸術作品と定義された純文学ですが、文章の奥にある真意を問うことは学びになります。

学ぶことが楽しいと感じる人にとって、純文学は面白いものです。

わからないと感じたとき、なんでだろうと知りたくなる欲求が湧いてきます。それが知識欲です。その欲求がないと、理解できないコトは苦痛になり、つまらなく感じるものです。

つまらないと感じたなら、まだ時期ではないということかもしれません。もうすこし成熟したら、きっと面白いと感じることでしょう。

分析力と理解力がピークを迎えるのは40代といわれています。その頃になったら、目を通してみるといいかもしれません。

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