「カリスマ」を体感した日
僕のTwitterのフォロワー様ならなんとなく知っているかも知れないが、僕はプロレスが大好きです。
特に「超」が付くほどの全日本派で、いわゆる三沢・川田・田上・小橋の全日四天王が繰り広げていた「四天王プロレス」に毎回心を打たれていた。
今から遡ること23年前の1998年、小学校5年生の時に、地元のイベントホール「メッセ昭島」に全日本プロレスの観戦に行ったことがきっかけだった。一つ下の学年に天野という友達が居り、僕よりも先にプロレスが好きだった彼が僕を観戦に誘ってくれたのだ。
興行日は体育の日で祝日。当時所属していた地元のサッカークラブでの練習を終え、ユニフォームのままで天野と当時学校内で漫才コンビを組み、毎日の様に一緒に遊んでいた吉山君と3人自転車を走らせて会場まで向かった。向かう途中に豪雨に降られたのを今でもよく覚えている。
小学生は立見1000円。会場に入りグッズ売り場に行くと、当時存命だったジャイアント馬場選手が、赤いジャージ姿で椅子に座って足を組んでいた。
ずいぶん前のことになるので記憶が曖昧だが、座っていても小学5年生の僕より大きいように見えた。
当時はジャイアント馬場、三沢光晴程度しか名前を知らなかった僕だが、その臨場感と緊張感を生で味わい、僕は一気にプロレスの虜になった。
それからすぐに全日本プロレスのファンクラブに入会し、当時日テレの深夜枠で放映されていた「全日本プロレス中継」も欠かさず録画。
確か日曜深夜にやっていたので月曜の朝にそれを見ながら朝飯を食べ、学校に行って「昨日の試合、見た?!」と天野や吉山君と盛り上がるのが月曜日の恒例行事だった。
1998年当時は現在ほど団体が多くなく、新日本・全日本のメジャー2団体、大仁田厚率いるFMWやザ・グレート・サスケ率いるみちのくプロレスなどのインディー団体がそれぞれの団体でしのぎを削っていた時代。
今では当たり前になった団体交流戦の可能性などは微塵もファンの頭には無かった時代である。
もちろん、僕も新日本プロレスの試合はテレ朝の「ワールドプロレスリング」で観ていた。ただ、入り口が全日本だったということもあり、「なんか違うんだよなぁ…」という思いが頭を巡っていた。
「プロレス」という大きな括りで見れば当然好きな部類に入るし、当時の所属選手の名前などは全員言える自信があるほど新日本も観ていたが、それよりも【全日愛】が勝ってしまい、勝手に新日をライバル視していたのかも知れない。ただ、このような感情を持っていたのが僕だけだったということは無いと信じたい(新日派が全日に同じように思っていた人も絶対いるはず)。
青天の霹靂
相変わらず「全日最高!」「四天王プロレス最高!」という思想に凝り固まっていた僕。初めてプロレスを観戦してから1年後、思いも寄らぬ事が起こった。
正確な日付は失念してしまったが、恐らくは土日、もしくは祝日。
小学校6年生に進級していた僕は休日を謳歌していた。
そこで、自宅の電話が鳴る。母親が電話を取り、僕を呼びつける。
【今日、メッセ昭島でプロレスやるらしいよ!】
え?!と素っ頓狂な声を上げた。
地元にプロレスの興行が来たことがある、という人はなんとなく分かるかも知れないが、プロレスの興行が行われる際には、電柱や壁、商店街などにポスターが貼られることが多く、更に団体によってはスピーカーを乗せた車で「●月●日、何時より試合開始です!」という宣伝カーが町内を巡ることも珍しくなかった。
【全日最高】とは謳っているものの、そもそも【プロレス】自体が好きな僕が、地元で行われる興行を見逃すはずが無かったし、各団体のスケジュールは週刊ゴングでチェックしていたはず。…一体どういうことだ?と混乱した。
ちなみに自宅に電話をしたのは昭島駅前に居た姉からで、公衆電話から掛けてきた様子。僕が電話を代わると早口で
「今日、シークレットの大会があるんだって!駅前で関係者の人が4枚招待券配ってたから貰ったよ!」と説明された。
正直、この時ほど姉に感謝したことは無い。
夕方の試合開始で、まだそれまでは時間がある、と思いすぐに電話番号が分かる吉山君に電話。即答でOK。
そしてまたも同じサッカークラブに所属していた仲の良いチームメイト・夏山君も直接家に誘いに行き、これもOKを貰って3人で自転車を走らせた。
ちなみにこの日の興行は「新日本プロレス 交通遺児チャリティーマッチ」。姉貴の言う通り、関係者以外には完全シークレットで行われた興行で、この日の売上は全て交通遺児の募金として寄付されるというチャリティーイベントだった。
初のプロレス観戦から1年が経ち、ある程度プロレス知識が付いてきた僕にとっては珍しいカードを見ることができた。
中でも【安田忠夫 対 平田淳嗣】というシングルマッチは、今考えるとめちゃくちゃ渋いマッチメイクだ。派手な盛り上がりは無かったものの、最後は魔神風車固めて平田選手が勝利したのを覚えている。
そして珍しいといえば、ジュニア選手のみのバトルロイヤルもなかなか見れないシロモノだった。当時から新日ジュニアではケンドー・カシンのミステリアスさに心惹かれていた僕は、必死に「カシン!カシン!」と大声を上げていたものだ。
サプライズ・ゲスト
大会も中盤に差し掛かり、田中秀和リングアナがリング上へ。
今回の大会の経緯・目的を改めて説明した後
「今日は、この方にも来ていただいております」と、誰かを呼び込む準備。「え、誰?誰?」と色めき立つ会場内。
「それでは登場していただきましょう。
燃える闘魂、アントニオ猪木入場!!」
言うが早いか、花道横の柵に殺到する観客。
僕ももちろんその一人。「うおおおおー!」と叫びながら柵から身を乗り出した。
お馴染みのあのテーマに乗せてアントニオ猪木入場。
耳をつんざく「大イノキコール」!
根っからの【全日ファン】であった僕が、テーマ曲に合わせ猪木の名前を叫んでいた。
今考えればこれが「猪木のカリスマ性」だったのだろうと思う。
生の「元気ですかー!」と「1、2、3、ダー!」を聴き、体験できたのは今でも思い出に残っている。
これらを踏まえると、11歳〜12歳の間で地元の会場でジャイアント馬場とアントニオ猪木を肉眼で観たことがある、というのは今の自分でも大きな自慢である。
ずっと燃えたままで
そしてそのアントニオ猪木氏も現在、病魔と闘っている。
2020年、「心アミロイドーシス」という、異常な蛋白質がさまざまな臓器に沈着し障害を引き起こす難病に冒されていると告白。
自身のYoutubeチャンネルでは病室での様子が不定期で配信され、ファンに向かってメッセージを送っている。
考えてみれば、猪木氏も喜寿を超え78歳。
普通に考えれば「元気ですか!」と言う側ではなく言われる側の年齢である。しかしYoutubeでの第一声は決まって「元気ですか!」で、その声量も80歳前とは思えぬほど迫力がある。
件のサプライズ猪木の1件で、【新日に寝返った】などと言うことはなく、今でも四天王プロレスが最高だと信じて疑わぬ僕だが、あの時の猪木氏の【人の心を揺さぶるパワー】は筆舌に著し難いものがあった。
さすがプロレスと格闘技のど真ん中を突っ走った人だ、と感嘆するばかりだった。そのカリスマ性に曇りは一切無い。
猪木氏のカリスマ性と「元気ですか!」の大声は、今の日本人がきっと欲しているものなのだ。
1日も早く回復し、全盛期のような大声で「元気ですか!」を、画面越しでもいいから聞いてみたい。
過去にも病気や大きな借金を乗り越えてきた猪木氏、きっと今回の病気も乗り切ってくれることだろう。
「人は歩みをとめたときに
そして挑戦をあきらめた時に
年老いていくのだと思います」
本人がそう語ったように、猪木氏もまだ歩みを止めていないはずなのだから。
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●marcy
現役保育士/ネットラジオパーソナリティ
「一悦庵ちゃんねる」ディレクター&編集
楽しそうなことには首を突っ込みたがる昭和の残党!
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