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言問わぬ木すらあぢさゐ

夜はまだ足元にひんやりとした空気を感じることもあるが、五月晴れの時候も先が見えてきて、梅の実の収穫も始まればそろそろ梅雨入り。紫陽花の季節となる。

花屋の店頭にはとおに紫陽花は並んでいるのでもともとの季節感は損なわれているが、西洋ではいざ知らず日本の紫陽花といえば、雲が低く垂れ込め今にも雨が降り出しそうな空模様に浮かび上がる、あのえも言えぬ趣がいいのである。
雨に似合う花はたくさんあるようでそうでもない。

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一見派手な外来の植物に見えるが、「あぢさゐ」は実は万葉集にもよく詠まれている古来の植物である。もっとも昔は今の紫陽花とは違って、少し地味ないわゆるガクアジサイだったという説が優勢だ。

紫陽花は土壌によっても付ける花の色が異なるし、一旦咲いてからも色が変化するものもあるので、七変化の花として万葉人の心を捉えてきたのではと思いがちであるが、実はそうでもない。ころころと花の色を変えることは、心変わりが激しく信頼するに価しない、と捉われていた節がある。

「言問(ことと)はぬ木すら紫陽花 諸弟(もろと)らが練(ねり)の村戸(むらと)にあざむかえけり」

というよく知られた大伴家持の歌がある。諸弟が誰であるのか解釈が別れていて難解な歌であるが、大意としては、言葉を話すことのない木の世界にあっても、紫陽花のように日々色を移ろいいくものもあるのだから、あの手練手管に長けた連中にはものの見事に騙されてしまったよ、と解釈されている。

つまり紫陽花は裏切りの花、心移りの花、欺きの花だと家持はたとえている。

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古来から、予期できない自然災害の多かった列島に生きる日本人は、どちらかというと人生を楽観視せず、常に心になにがしかの不安を抱いてきた。かといって刹那的になり切れないのもこの民族の性である。自然災害からはある程度身を守れるようになった現代でも、高齢化を含むありとあらゆる社会の不安要素を前に悲観的な考えを持つようになる人が多いし、それを杞憂だと説得できる根拠も存在しない。

私とて例外ではなく、生まれてこの方、人生を楽観視したことはただの一度もない。いつも何かの不安を抱えている。具体的に言い表せることではなく、漠然とした不安感が一瞬でも消え去ることはない。喜びに嬉々としているときでさえ、肺臓の一部から空気が漏れているような苦しみや悲しみへの恐怖感を拭い去ることはできない。

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それが身に付いているせいか、心の底から喜んだり、はしゃいだり、笑ったりはしたことがあまりない。調子に乗ると必ず不幸が訪れるということを知っているからだ。しかし逆にいうとどんな不幸も大なり小なり一過性であることも知っている。

そぼ降る雨に浮かび上がる紫陽花を見ると、人生にはいろんな影や闇があることを思い出し、ふと足を踏み出せなくなるときがある。なのになぜかそのみずみずしい光景にいちばん心が落ち着くのも否めない。

そんな想いを馳せつ、毎年のように紫陽花が零れ落ちそうな寺を巡る。しかし大抵は蒸せる炎天で蜂に追われて難儀し、諦めて山門を出ようとすれば小雨が振り出す。

紫陽花はやはり人を裏切るのである。

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