【地に足のついていないポジティブは、しばしば人を傷つける、というお話】
大切な仲間だからこそ伝えたいことがある。
表題のことだ。
自らの教育実践、仕事の実践、子育ての実践、市民生活の実践、はたはた社会的弱者救済の実践、まちづくり、医療、保健、衛生、科学、学問、、協同労働、、さまざまな実践がある。その成果を共有するのは、とても大切なことだ。
成果が見えたら、みんなで共有し、その過程をねぎらい、共有知とする。そして、そこに関わった人は(もちろん、建設的批判をした人も含めて)その成果を喜び合うべきだ。
しかしながら、忘れてはならないことがある。
成果の影には、必ず、闇や闇まで行かなくとも「ダーク」な部分が隠れている。その成果は、先人が一歩一歩、劣悪な状況を改善し、道を開き、より快適な空間、場所、人などを開拓した結果だ。過去の「プロフェッショナル」の人生につながっている。
そしてもう一つ、忘れてはならないことがある。
「だれもが、成功者のようにできるわけではない」ことと「そうできる人は、できない人の気持ちに気づきにくい。影で傷ついていることに気づきにくい」ということ。
「闇を内包していない、通過していない、地に足がついていないポジティブ」は、「原理はわかっているけどできない、やりたくない」人を、知らず知らずのうちに、だいぶ傷つけているのだ、ということ。
ところがどうだろうか。
世に跋扈する「ポジティブ」(私はこれを、かっこ付きポジティブと呼んでいます)は、その歴史をとっくに忘れ、ただただ、今の状況しか映し出していないように見えることがあるのだ。
こう考えるのは卑屈なのかもしれない。
親切な方は、「ネガティブを封印した方が、あなたにとって得だ」とアドバイスしてくださる。ありがたいと思う。気にしていただいて、感謝する。
それは本心だ。
でも一方で、それは大きなお世話だ、という思いも拭いきれない。
世の中には、努力して成果をあげる人もあげられない人もいる。「成果を上げるには秘密がある」として、縷縷その要因を詳細に解説し、これを実践すればあなたも成功者!のような扇動のような書籍の類が、それこそ星の数ほど出版されている。
このコロナ禍で、オンライン上を見れば、星の数ほど研修だ、セミナーだ、中には怪しい宗教のようなものまで存在する。私には、多くの人がそれに右往左往し「セミナー鳶」になっているように見えてしまう。
もっとシンプルにとらえてはどうか?そもそも成果をあげる人もあげない人もいるんだ。それだけだ、と。「はなからそういうものだ」と。
つまり、何を言いたいか?
「成果をあげた」人は、「たまたま」かもしれない、という謙虚さを忘れないで!ということ。
冷静に考えれば当たり前のことだ。
長いスパンで見れば「いい時もあれば悪い時もある」のだ。
閑話休題。
わが教育行政を振り返れば、教育の世界だって社会の縮図だから、もちろんその中で成果をあげる人、あげない人。もう少し露骨に言えば、行政当局に評価される人されない人がいる。
繰り返すが「そもそもそういうもの」だ。「たまたま」だ。
「今が良くても、今後どうなるかはわからない」(よくなるかもしれないし、悪くなるかもしれない)のだ。
成果を上げて、評価を受け、思うような仕事ができている人は、下世話な表現ですまぬが「運が良かった」だけかもしれない。逆にそうでない人は「運が悪かった」「だけ」と捉えてはどうか。
でもわかっちゃいるけど、つい、両者とも、両者の立場が見えないで、わからないで、知らず知らずのうちに、人を傷つけてしまう。でも気づかない。
公立学校教員のことで言えば・・・採用試験に「たまたま」受かった正規が、非正規にマウンティングするなんてことはほんとうに馬鹿げている。
逆に、非正規が正規に恨み節を言うのも間違っている。イーブンだ。
私の好きな言葉だ。「平等」より好きだ。「水平思考」が好きだ。
世の中には、能力があっても評価されない人もいる。というか、そちらの方が多いのではないか。「山月記」の例を引くまでもあるまい。
「たまたま」うまくいっている人は、神という存在がもしあるのなら、まさしく「神の思し召し」だ。「神様」が「あなたはいま、これをやりなさい」と言っているだけだ。逆もまた然り。「耐える力がある人にしか、神様は、苦難を与えない」とよく言う。その通りだと思う。
だから、大切な仲間にお願いしたい。どうか「ポジティブ」を過度に表現しないでほしい。「ネガティブ」を脈絡なくポーンと投げ捨てしないでほしい。両者によって、傷つく人、違和感を持つ人がいるのだ。ニュートラルに行きたいものだ。
追伸1:
長期臨時採用問題から上記は考えました。端的に長期臨時採用問題解消のアイディアを言えば、「辞令の書き換えで正規に」だけです。実にシンプル。採用試験絶対神話、にぜひ疑いを持っていただきたいです。
追伸2:
採用試験に通ったから「教員としての実力」があるのですか?本当に?あるのだとしたら、なぜこんなにも不祥事が起こるのでしょうか?そして、「通過のための特別な勉強」をしなければならない「制度」を批判的に見るクリティカルな視点を持ってください。
追伸3:
「特別な勉強」などしなくとも「日々の実践」に打ち込めば「十分な資質能力があると認められるシステム」こそ「本質」です。だから、簡便な学力検査、書類選考で十分。現状は、日々の実践を一生懸命やればやるほど、不合格になるシステム=「制度矛盾」「制度設計の誤謬」があるのです。早く気づいてください。
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