『恋するアダム』イアン・マキューアン(読書会メモ)
このブログは、第4回「終わらない読書会―22世紀の人文学に向けて」の予習用メモです。
以下、たくさんの刺激的なトピックリストは、講師をされる予定の濱野ちひろさん(大阪公立大学 UCRC 研究員/ノンフィクション作家・『聖なるズー』の著者)の提供です。ありがとうございます。
読んだのは、イアン・マキューアン『恋するアダム』(村松潔訳, 新潮社, 2021)
1. アダムは人間にそっくりな姿をしているように描かれているが、どこがどのくらい似ているのか? またどこは似ていないといえるのか?
似ている姿
背格好、姿勢、顔立ち、歩行(走っている場面はなかったか)、声、肌ざわり、体温、呼吸、心拍、瞬き、毛、筋肉、性器、人種的外見、…
似ていない姿
黒い縦線のある目、かすかな駆動音、充電されていない時の血色、充電している時の臍とケーブル、…
2. アダムは、人間の生理現象に似た反応や仕草さえ見せることがあるように描かれているが、 そのような反応・仕草がなぜ組み込まれているのか?(誰にとって、なぜ必要なのか?)
人の姿とそっくりになった時に感じる「不気味の谷」を人間(利用者)に感じさせないため。瞬き、驚いた表情、言い淀みなど、ひと特有の反応を組み込んでいる。
3. アダムがこちらに視線を向けているとき、私達は「目があっている」と自動的に認識してしまうが、実際のところ、アダムは私達と同じ意味では私達を見ていない。この点について、 倫理的問題はないのか。(ロボットから視線をなげかけ「心が通じ合っている」かのように 感じさせてしまうことに倫理的な問題はないのか?このようなことはすでに現実に起きていると思われる。e.g. LOVOT)
例えば、子供が友達として認識したLOVOTが壊れたときに棄てるということができない。おそらく埋葬のようなことをするだろう。人形の供養と同じような意味合いになるのではいか? これは倫理的な問題ではなく、共感の教育として機能するとも思える。カズオ・イシグロ『クララとお日さま』のラストシーンの非倫理性に共通するか?
逆に「目があっている」モノに過度に生命を感じるように共感してしまうことが、精神形成に悪影響を及ぼす可能性があるのでは? 過度な場合、道具を道具として扱えなくなる可能性があるかも。
4. 人間とその他の種(アダムのような新しい存在も含む)が共生するとき、性(性的な魅力、 能力、性的関係を構築する能力など)の要素は必要か否か? またそれはなぜか?
必要であるとすれば、セクシャリティを持たないものとして見るということは、個人(『聖なるズー』で言うところの「パーソン」)として認めず、「子供」(不完全なもの劣っているもの)として役割を押し付けることになる、ということか。
必要でないとすれば、セクシャリティは「社会的な約束事」か「生存本能」のどちらかであって、他の種とは共有することは無意味であるから、ということか。
5. アダムが「生きている」と証明することはできるか?
「生きている」の定義を一般的な、「外界との区分」「自己増殖」「エネルギー代謝」とするなら、アダムは「機械としての身体」「データの複製」「電気駆動」とあるので「生命」と言える。
6. アダムたちは「生きている」のだと人々を説得し、社会の共通認識とすることはできるか?
一部のラディカルな人々は政治的な意味で積極的に「生きている」と宣伝するだろうが、一般的には無理。まず「意志がない」「ひとにプログラム(デザイン)されている」「生きているように見えるように作られている」ものは、道具(モノ)として認識されるだろう。名前を「アトム」にしたら日本では受け入れられるかもしれない。すでに「アトム」には意志と感情と物語があると認識されているから。「ルンバ」と命名した場合との差を想像。
7. アダムのような存在がいずれ現実に登場するとして、私達はそういった存在に「人権」のようなものを用意するべきか。それはなぜか。それは誰(何)のためなのか。
用意するべきではない。というか用意しなければならないような人工物を作るべきではない。あくまで道具として認識できる範疇にとどめるべき。(個人的にはAGIが実現する頃に人権という概念がまだ残っているかどうか怪しいと思うが)
「人権」を用意するべき状態は、「それ」を道具とすることが使う者(人間)にとって苦痛になる程の「パーソナリティ」を備えたときであろうか。人種差別と同等の「罪」だと認識されたとき。
8. アダムが現実に存在し始めた場合、アダムよりも性能が優れているコンピューター(動かない・喋らない)は当然存在するはずだが、そのコンピューターには「人権」のようなものは生じるのか? 生じないのか?
生じない。というか生じないようにするための措置として、道具であることを強調するデザインにする(はず)。
9. アダムに電源(キル・スイッチ)が備えられていることには、倫理的正当性はあるのか
『恋するアダム』の世界であれば、当然、倫理的妥当性がある。キル・スイッチがない汎用人工知能を野放しにする方が倫理的に問題になる。要はアダムはまだ試作品であるから。
もし、「それ」が「人権」を持つほどになってしまったのであれば、当然、キル・スイッチに倫理的正当性はない。
10. アダムの電源を一方的に切り、その活動を強制停止することは、殺人に値するか?
「人権」のようなものに、生存権が含まれないことはあり得ないので 、9と同じ。
11. 近い将来、アダムのような存在が現実に登場し、なおかつ、何の問題もなく平和に共生できているとして、人間(アダムの所有者/パートナー/家族...etc)の死後、アダムはどうなるのか? 遺されるアダムたちを、どう扱うべきか?
「人権」のようなものを持つ存在として共生しているのなら、すでに「ロボットという人種」くらいの扱いになっているだろう。逆に言えば、道具として何の問題もなく共生しているスマホ(アレクサ在中)が、持ち主の死後どうされるべきかといったことは誰も気にしない。「アダム」たちに遺されたという「意識(感情)」を持たせるならば、彼らに、新しい「所有者」を選ぶ「意志」も持たせておく必要がある。
総じて、「アダム」たちに「生命」を感じるのは人間の側であって、「アダム」に「生命」が客観的に生まれたわけではない。もし「生命」を感じるまでに「人間的な人工生命」を作ってしまえば、人間自体がそれを道具として扱うことに耐えられなくなるので、法的に人権を与えることになるだろう。ただし、その「人工生命」は人間が安全に管理(保守)し続けるか、人間を超えた(シンギュラった)人工生命そのものに管理を委譲するかのどちらかになるが、どちらも人間の手に負えることではないと思う。したがって、道具以上の人工知能・アンドロイドを作るべきではない。