ジョイス ダブリナーズ『出会い(An Encounter)』(解答篇)
【問題】
「ぼく」のこの麻痺(パラリシス)は、一体、何が原因なのか?
男は、一度、2人から離れ、野原のはずれで「He’s a queer old josser!」(D En.248)(「あいつ、変態爺いだぞ!」(D-Y En.39))とマホニーに評される何事かをしてから、戻ってくる。
マホニーは、猫を口実に早々と逃げ出すが、「ぼく」は迷ったまま麻痺している。
男はまた話し始めるが、
それは、「新しい中心」の周りをゆっくりと輪を描くようにうっとりと、なされる。
男が「ぼく」とマホニーに話していた前半で、これとほとんど同じ表現がある。
文脈からは、前半の sweethearts や girls 礼賛の話題から、後半で男の子の鞭打ちの話題へと「中心」が変わることを意味していると読める。
しかし、「運動」として読むと、中心をゆっくりと軌道を描くように回る仕草は、男を魅了する動作、陰部を中心としてゆっくりと指を巡らせる自慰行為を連想させる。
その行為の中心=陰部は、前半では男自身のものであり、我慢できなくなって野原のはずれで(マホニーが目撃する)自慰行為を行い、戻ってきてから「新しい中心」=「ぼく」の陰部に狙いをつけているのだ。
男は「ぼく」を攻囲して攻めて(encounter)いるのである。
はい! 解答は「男の男児性愛的な悪戯に反応しきれず、硬直(麻痺・パラリシス)している」でした!(…硬直で勃起を匂わせています)
正解の方には、豪華賞品の発表をもって発送に代えさせていただきます。
さて、そんな麻痺状態で、なんで「ぼく」はこんなに色々なことを考えているのか?
それは『姉妹』でも話があった「回顧的整理」(ユリシーズでお馴染み)で説明できるのではないか。
未来の「ぼく」があの An Encounter を思い返して、当時にはほとんど考えることもできていなかったはずのことを、あたかも「あのときはこう考えていたのだ」と回顧的に整理しているのだと。
だとすれば、男の考え方を liberal である/ないと評価する少し進歩的な感覚の違和感も説明できるのではないだろうか。
結末は曖昧だ。
マホニーを無知と受け取るなら、「ぼく」は蒙昧主義へ逃避したことになるし、マホニーを現実の裏表を知っているやつと見るなら、「ぼく」は book を捨て街に出て行こうとしているとも受け取れる。
ともあれ、『出会い An Encounter』は、「ぼく」が、イギリスの支配やカトリックの倫理、腐ったアイルランド(男)に「会戦(An Enconter)」する物語なのである。