ジョイス『下宿屋』(ダブリナーズ)
このノートは、「Deep Dubliners — ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』オンライン読書会」の予習メモです。
読んだのは下記。
『ダブリン市民』安藤一郎訳 新潮文庫(昭和58年11月20日 43版)
『ダブリンの人びと』米本義孝訳 ちくま文庫(2008年2月10日 一刷)
『ダブリナーズ』柳瀬尚紀訳 新潮文庫(平成22年3月1日 一刷)
引用は柳瀬訳から。
どの訳も芝浜を一席始めそうな口調でけっこうノリノリの出だし。明らかに喜劇風で米本義孝解説ではオペラのパロディにもなっているらしい。
あらすじ的には、下宿屋の女将ムーニーが、娘ポリーと懇ろになった下宿人ドーラン氏を逃さないように結婚させようと企み、オロオロするドーラン氏と強かなポリーという図式で、まあ、どうでもいいようなありふれた話である。
以下、思いつくまま。
母親がドーラン氏を呼んで決着をつけようと気張るときに
そして母親に呼び出されて階下に向かったドーラン氏を見送ったあと、娘のポリーは、
まるで鏡を通じて、ガッツポーズを交わしている。
うむ。母親はもともと大店肉屋の娘で、店の職人頭にひっかけられて結婚した、という風に最初は読めるが、夫は義父が死んだ途端にギャンブルに溺れる。どっちかというと、女の方が夫をはめたのではないか。ほんとは夫の方は暖簾分けしてもらって独立したかったのに、はめられたのではないか。
気が弱くて、世間体や中途半端な信仰心を持つ、身持ちや腕のいい男を捕まえるシステムがダブリンのこの社会階層にはきっとあったのだ。というか今もどこにでもある。
母親と娘が果たしてどこまで意識的に企んだのか、という問題はあまり重要ではなくなる。というか「すべてを胸の内におさめておい」ても、まんまとやり遂げられるところがすごいのだ。
p.103で、母親が問い質し娘が答える場面の、長ったらしい「心の理論」の描写(知っていたけど知らないふりをしていたと思われたくない、ということを見抜いているけど見抜いているとは思われたくない)に、息もぴったりに男を絡め取ってしまう母娘を作り上げるハイコンテキストなダブリン文化を見ることもできるだろう。(ダブリン、ごめんなさい)
ちらっと出る、ジャック・ムーニー(兄)もいい演技をしている。
女将との戦いにオロオロしながら赴くドーラン氏とすれ違うときに
いるのだ。
なぜ「二本」?
もちろん、義兄弟ドーラン氏と祝いの乾杯をするためだ。
もう、ジャック(兄)は、ドーラン氏がポリー(妹)から逃れられない最後通牒をつきつけられて結婚を約束させられることは予想済み。泣き笑いの顔で戻ってくるドーラン氏を呼び止めて、「兄弟!おめでとう!」とバス・ビールを一本差し出すのだ(泣)
というわけで、この短編は喜劇だけれども、その喜劇性を生み出す源泉は、何世代にも渡って同じことを繰り返し、ほとんどシナリオ通りに動く喜劇役者しかいないダブリンという街のパラリシスなのだ。(まあ、ダブリンだけではなくどこの田舎も同じようなものなので)