見れない映画10:ずっとハリウッド終焉前夜



・2020年代 『ハリウッド映画の終焉』のこと

知らない映画を見るために過去に遡る必要があるとしたら、そこで「ハリウッド映画」という語彙がなにを表す言葉なのかを考えておきたい。ということで今回、宇野維正『ハリウッド映画の終焉』(2023年、集英社新書)を読む。

本書はこのような、ショッキングな書き出しから始まる。

「カルチャーとしての映画、アートとしての映画はこれからも細々と続いていくだろう。しかし、産業としての映画、とりわけ20世紀中盤から長らく「大衆娯楽の王様」であり続けてきたハリウッド映画は、確実に終焉に向かっていくだろう。」

宇野維正『ハリウッド映画の終焉』集英社新書

コロナ禍を理由に途絶えたはずの映画館への客の足並みは、パンデミックの危機が去った後も回復していない。その証拠に、この20年でアメリカ映画の制作本数は半減しており、描かれる映画の内容や制作背景についても様々な理由でアメリカ映画は決して楽観視できない変化を被っている。本書は、16本の新作映画についての作品評を模った、アメリカ映画衰退の現状についての時評である。それゆえ著者の評は、作品に内在的な分析という方法をとらず、個々の制作背景について、#MeToo運動やキャンセルカルチャーの流行に起因する制作サイドの人員整理、感染症の流行と並行した配信メディアの台頭、スーパーヒーロー映画に代表される大企業主導のシリーズ映画商業モデル、そうした状況下で自身の「最後の映画」をつくる巨匠監督などといったトレンドの紹介を交えながら、いかなる事情によってそうした映画が完成したか(または、事情により目指したものが完成し得なかったか)、その背景状況を描き出している。個人的には第二章の『ブラック・ウィドウ』、『ジャスティス・リーグ:ザックスナイダーカット』にまつわる、ここ20年のスーパーヒーローシリーズ裏の、いざこざをとりわけ楽しく読んだ。
確かに本書の指摘を待たずとも確かに、昨今のアメリカ映画の層の薄さには映画館に足を運ぶ一観客としても背筋の凍るような薄寒さを感じる今日この頃だが、一つ疑問を呈しておかなければならないのは、「ハリウッド映画の衰退」とは、そもそもつい最近始まった現象なのだろうか。

・1950年代 「ハリウッド映画史講義」のこと

「ハリウッド崩壊の歴史とは、文字通り映画が資本主義に敗北する歩みにほかならない。第二次世界大戦後の脱工業社会は、もはや産業としての映画も、商品としての映画をも絶対的には必要としていない(…)にもかかわらず、映画とは無縁の企業のいくつかが映画の撮影所をいまだに買収したりしているのは、具体的な映画製作そのものの魅力に惹かれてではなく、映画という「イメージ」に何がしかの神話的な余剰価値がまとわりついているからである。おそらくそれは資本主義的な錯覚にすぎないのだろうが、七〇年代から八〇年代を通してわれわれが立ち会いえた映画の歴史は、その錯覚が晴れるまでの猶予の一時期をいかに生きるかという、およそ展望を欠いた試みであったように思う。」

蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』(1993年)

1993年に刊行された蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』は、ハリウッド映画の概説でも、その黄金期の代表的な映画についての作品批評でもなく、1950年代に始まった「ハリウッドの衰退」について書かれた書物である。第二次世界大戦後の赤狩り、それに端を発する外国人映画監督の流出、主要メディアの映画からテレビへの転換といった要因によって、すでに「ハリウッドの終焉」は始まっていたのだ。
では、その1950年代とは、現代から見ていかなる時代だったのか。1950年代にすでにハリウッドが終焉していたなら、2023年に今、終焉を騒がれているこの「ハリウッド」とは一体何なのか。そこにはどのような差異があり、いかなる時間の厚みがその差異を生み出したのか。ひとまず、1950年代の映画がどのようなものだったか、現代の視点から省みる。

本書で説かれる1950年代とは、テレビ産業の台頭によって映画産業が産業の規模を縮小しなければならなくなった時代である。1950年代とは、自国でスタッフを賄えなくなったアメリカ映画がわざわあ海外を舞台に『ローマの休日』を作らなければならなくなった時代であり、テレビの煽りを受けて小・中規模の映画についてハリウッドで継続的な制作が困難になっていく時期にあたるらしい。結果として、全年齢対象の無害で豪華絢爛な大作映画だけをつくることだけに、貧しい縮小を強いられたのが当時の「ハリウッドの終焉」の一端であったようだ。

そういう話を、ただ後の時代の人間として伝えきくだけの時に、私はこの映像のことを考える。1950年代のハリウッドを「豪華絢爛」と勘違いする映像だ。

もちろんこれは、映画の予告編なのではない。2019年GUCCIの春夏キャンペーン映像である。1ミュージカル映画『雨に唄えば』(1952年)にオマージュを捧げたというこの動画が、その紹介文に「セレブカルチャーの始まりである黄金期ハリウッド映画のミュージカルにオマージュを捧げた」という一文だけで、ぞくぞくするほどいかがわしいものであることがわかる。いつから「ハリウッド」はセレブカルチャーの起源になったのだろう。1950年代はハリウッドの黄金期どころか衰退期ではないのか。
この映像には、『雨に唄えば』に限らず、『パリのアメリカ人』、『マイフェアレディ』、『紳士は金髪がお好き』といった50年代のミュージカル映画(そしてなぜかフェリーニを連想させる道化師)が登場する。この50年代ハリウッドの能天気なかりそめの華やかさこそ、何も知らずに育った私のような後の世代にとっての「ハリウッド」にほかならない。これこそ、「映画という『イメージ』にまとわりつく何がしかの神話的な余剰価値」以外のなにものでもないのだ。

では、あらためて1950年から今までに何が起きたのか辿る。

「アルドリッチとともにハリウッドは消滅し、以後、合衆国で撮られる映画のほとんどは、単なるアメリカ映画でしかなくなってしまうだろう。そのとき誰もが捉われたのは、そうした危惧の念であったはずである。
 たんなるアメリカ映画とは、合衆国にほどよく類似することを無意識のうちに受け入れている映画のことだ。(…)それは、アメリカ合衆国に対する映画の敗北宣言を意味している。アルドリッチとともに消滅しようとしているハリウッドとは合衆国にさからうことでおのれを支えてきた、ある独自の時空にほかならない。事実、ハリウッドで起こっていたことのほとんどは、ほぼ半世紀のあいだ、合衆国にとって容認しがたいものばかりだったのである。アメリカ映画の歴史は、アメリカという国とそこで撮られる映画とが、決して同じ利益を共有していないという事実の貴重な証言なのだ。ハリウッドが世界を征服しえたのは、それがたんなるアメリカ映画ではなかったからにほかならない。アルドリッチが体現していたのは、そうしたハリウッドの伝統である。それが、彼の死とともに揺らぎ始めている」

蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 翳りの歴史のために』(1993年)

1950年代に活躍した、というかむしろ活躍の機会を奪われてきたロバート・アルドリッチの死(1983年)と共に綴られるのは、ハリウッドという制作システムの崩壊である。そこでは「ハリウッド」がアメリカ、つまり資本主義のシステムを受け入れて柔軟に変化していく国の様子と明白に対比されている。ハリウッドの敵はアメリカであった。

「ハリウッドVSアメリカ」。この構図のもとでようやく、2023年の『ハリウッド映画の終焉』と1993年の『ハリウッド映画史講義』の、共通点と差異の両方が明白に際立ってくる。そこではいずれも、迫り来る時代の流行=資本主義に抗って、ハリウッド=従来のアメリカ映画を擁護するための主張が述べられている。しかしそこには、映画の立ち向かうべき「資本主義」が21世紀のグローバル経済なのか、戦後アメリカのパックスアメリカーナなのか、目指すべき理想が70〜80年代のアメリカの作家映画・社会派映画なのか、戦前のハリウッド映画がある。その時代的な差異とは、つまり前の時代にそうなってしまったハリウッドの「崩壊結果」であると同時に、次の時代には擁護されようとして再び崩れ去るその過程を通じて、表面の皮を剥き替えられ続けながら生き延びる映画の敗戦記録にほかならない。
たとえばそれは、スタジオシステムの崩壊と引き換えにスター監督のスタンドプレーに頼るしかなくなった70年代、一般企業と制作現場をつなぐプレイヤーが猛威を振るった80年代、国内の作家の代わりに、南米や東欧やカナダ出身の監督が挙ってアメリカで映画を撮るようになった9.11以後の時代といったかたちで手を替え品を替え、立ち現れるというか実態を失っていく「ハリウッド映画」ならぬアメリカ映画の様相であった。
その奇妙さを体現する微妙な役者として、『ハリウッドの終焉』には、クリストファー・ノーランという一人の監督が登場する。映画監督というよりも企業向けのプレゼンテーションのほうがずっと得意そうで、キャリアの中でまともな映画の演出を一度も披露したこともなく、有名俳優に単純な話をわざとこねくり回して熱弁させるしか能のないこのノーランという監督が、本書では、失われていく美しい映画の黄金期の最後の英雄かのように颯爽と登場し、「私たちは皆、世界をより良い場所にするためのプロセスに携わっています(…)映画界においては魔術的な思考と懐古と白昼夢こそがたった一つの堅実なビジネスプランなんです」と啖呵を切る。その様子に、一度も彼の映画に満足したことも、このイギリス人の作風に一度もハリウッドを感じたこともない観客である私は、違和感を覚えないではいられない。
ノーランの主張は至極真っ当で正しいし、心から応援したくなるようなものだ。それはつまり、ハリウッドVS資本主義の現在形は、映画監督の中では一番ビジネスマンっぽいような人物の一人と思われたような映画監督が、ビジネスと映画の対立の最前線に立つアーティストの代表かのように振る舞わなければならないという「ハリウッドVSアメリカ」の深刻な現状を表している。映画という時代遅れのメディアと資本主義の戦いは今に始まった事ではないにしろ、その「今の戦い」はこういった状況になっていると窺い知れるのが、『ハリウッド映画の終焉』という本の一つの価値なのだと思われる。

・キャンセルカルチャーのこと

そのうえで、改めて『ハリウッド映画の終焉』は本当に「ハリウッド映画」の終焉に関する書物たり得ているのだろうか、今一度問いかけてみる。疑問視したいのは、著者の態度でも、情報の正確さの問題でもなく、本当のハリウッドの終焉は実は1950年代であったというようなことでもなく、ただただ「ハリウッド映画の終焉」などという大きなテーマが一冊の新書で語ることができるのかと言うものだ。
実際、私の好きなデヴィッド・ロウリーや、ケリー・ライカートや、ジェームズ・マンゴールドや、アイヴァン・ライトマンといった現代映画の監督のことはほとんど触れられていないし、こうしたアメリカ映画の監督が別の国の資本で映画を撮り続ける可能性や、A24、モンキーパウ、ネオン、アマゾンMGMの動向もほとんど語られていない。また、別の媒体では著者が力を入れて紹介しているはずのドラマシリーズが、アルファンソ・クアロン、ジョナサン・ノーラン、スティーブン・ソダーバーグ、ライアン・ジョンソンといった作家を引き入れて大人向けの中規模アメリカ映画の代用品にこれからなる可能性もあるはずだが、そうしたストリーミングサービスの動向についてはあとがきでほんの少し触れるに限られている。
もっと他にもこういう話がある、という指摘はどのような本に対してさえ野暮だとはおもうけれど、そうした「他の話」へと考えが及ぶのは、私自身、著者が本書で主張するような絶望にいまいちノっていないかなだし、あるいは持って別の強烈な絶望はそれこそ何十年も前からあったと思うからだ。そこで、「20世紀中盤から大衆娯楽の王様であった」ハリウッドというものの定義も、それが「確実に終焉を迎えている」という洞察も、結局は話半分で聞かなければならないものとなるだろう。

結論から言えば『ハリウッド映画の終焉』の主題はハリウッドでも、終焉でもなく、2020年代のアメリカ映画の制作環境にまつわるゴシップと、著者のキャンセルカルチャーへの抵抗の文言、この二つを軸に構成された新書である、と述べるべきなのだ。
実際に読んでいると、キャンセルカルチャーによる人員整理や、ワインスタイン兄弟やスコット・ルーディンといった90年代の重要なプレイヤーの退場、ワインスタインに飽き足らずジェフリー・エプスタインと間接的な提携関係も持っていたディズニーが方向転換を迫られながらも強大な影響力を持ち続けて生き延びる現状、大企業の趨勢に翻弄されたザック・スナイダー、スカーレット・ヨハンソン、ジェームズ・ガン、マーク・ウェブといった個人の話で著者の筆がのるのがよくわかる。本自体に読み応えを与えているのは、ゴシップ記事としての面白おかしさであることは避けられないだろう。

そのうえで、最終盤の「TAR」評とあとがきで筆者が力を入れているのがキャンセルカルチャーへの抵抗である。流行りや、大企業の意向によって個人が簡単にキャンセルされる時代に「人はキャンセルできても芸術はキャンセルされない」と訴える著者の主張は切実だ。ライターとしての矜持が窺える、社会の作品との接点について述べた以下の箇所にも書き手の真摯さが色濃く伺えた。

「ページビューを稼いで名を上げるのが目的の『社会派』ライターならともかく、映画を専門とする書き手の責務は、ポリティカル・コレクトネスの扇動者になるのではなく、それを「流行語」として並行輸入する際の解説屋になるのでもなく、もちろんそこで反動的な言説を振りまくのでもなく、作品に込められた作者の真意と、作品が持つ社会的意義を、監督のそれまでのキャリアの縦軸と、同時代の作品の横軸の中から浮き上がらせることなのではないだろうか」

宇野維正『ハリウッド映画の終焉』集英社新書


・青い血の流れる体のこと


さいごに。
大企業のゴシップが私たちの体になんの関係があるのか。大企業が自分達のブランドイメージを気にかけるそのような外見に関する企業同士の損得にかかわる政治のやりとりが私たち個人の生活となんの関わりがあるのだろう。
あるとすれば、その企業と関わりながら生活する私たちもまた(主に職業を通じて)、自己イメージのマナーのようなものを内面化させられるということだ。そこでブランドイメージとはメディアの中を流通するのは「キャラクター」としての体であり、私たちがキャンセルカルチャーを恐れる必要があるとすれば、私たち自身が自分達の身体をその単なるコミュニケーションツールとしての「キャラクター」に縮減可能だと勘違いするような局面においてだろう。生身の体に対して、このコミュニケーションの中を流通するもう一つの体を仮に「アバター(分身)」と呼んでみてもいいかもしれない。

『ハリウッドの映画の終焉』には、ジェームズ・キャメロンによる『アバター:ウェイ・オブ・ザ・ウォーター』に関する章が登場し、同時代の3D映画の趨勢がわずかに触れられている。3D映画の流行について、一作目の『アバター』(2009年)公開当時はその流行の先端にあったものの、10年も経たずにそれがひと段落し、現在の映画はMCU映画で半ば義務のように完成した本編にポストプロダクションで3Dコンバージョンが施されるのみだと説明されている。

2010年代というのは、劇場でのデジタル上映方式が急速に定着し、フィルム上映が多くの映画館から姿を消した時代でもあった。MCU映画のテカテカの画面を見ながらこんなことを私は考えた。『シン・ゴジラ』(2015)公開当時、技術上の問題になったのはゴジラを描く3D技術は十分に発達しているが、ゴジラの表面と、撮影された背景との両方にかかる影の整合性にはどうしても違いが出る。そこで、影の違和感というのが3Dの技術の課題として残るということだった。
それから数年もせぬうちに映画館で頻繁に見るようになったマーベル映画のテカテカ画面を眺めて、3D映画の影の整合性問題は、技術上の問題ではなく、3Dの不自然な映像に観客の目を慣らすという形で解決をしたのだと納得するようになった。

「赤いピルと青いピル」という有名な譬え話がある。映画『マトリックス』(1999)で、この世界がシミュレーションであると知らされた主人公ネオが、シミュレーションにとどまるか(青いピル)、現実を見る(赤いピル)か選べと迫られるというものだ。以後、哲学や現代思想で頻繁に登場する譬えになるのだが、私か3D技術がもたらした身体イメージの話として今、これを理解している。
映画には、生身の赤い血が流れる身体と、スーパーヒーローのようにデジタル加工が施された「青い血」の流れる身体が登場するようになった。それがポストインターネット社会で、私たちの社会がメディアから被った一番大きな変化ではないだろうか。

ここで、やっとキャンセルカルチャーの話に繋がる。キャンセルカルチャーと聞くと、私は単なるゴシップではないかと思ってしまう。芸能人でもないのに、なぜキャンセルが怖いのかと思う。それは、身体が単なるコミュニケーションツールに縮減されるものではないからだと思っているからだろう。キャラクターや役割がなくなっても身体は残る。個人は役割に奉仕しない。そう思っているからだろう。

しかし、メディアの中ではそうではないのだ。キャラクターや役割を失った身体は簡単にキャンセルされる。サノスのそれのように指パッチン一つで、なかったことにされる。そういうメディアや物語を内面化してしまうと、私たちは自分の体を大企業のブランドイメージのようにファッションとして扱うようになる。

映画のイメージの中で身体について、ノイズについてずっと考えたり傍にそれたりしてきた。「第6回 映画SF」というところで、結局映画というのは限られた時空間をどのように身体が通り抜けていくか、その記録のことだという話をした。それが例え巨大な資本が用意したマルチバースのような巨大迷路のような時空間であろうと、たった一つの身体がなんとか入り口から出口まで抜け出していく。映画とは結局ただ
そういうことではないのか。

映画にはときおり単なる身体になる身体が登場する。役割を奪われ、筋書きが途切れても、映画の出口に辿り着く身体。意味や物語がなくなっても疲れて、病んで、のたうちまわる身体を想起している。ユスターシュや、カサヴェテスや、モーリス・ピアラのような映画を想起している。ペドロ・コスタの『ホース・マネー』やアニエス・ヴァルダの『冬の旅』のような身体を想起している。それは赤い血の流れる身体であったかもしれない。
一方で、そうしたことのない身体。役割や意味が優先され、それがなければなくなる身体。あるいは一つの意味に押し込まれる二つ以上の体、一つの役に与えられた複数の体。マルチバースからやってきたピーターパーカーの身体とはそういうものではないか。キャンセルされた身体はその一つの時空間の中でなんでもできる代わりに、簡単に消えてしまい、そこから出られなくなってしまう。それは危機であるだろう。キャンセルというのは、個人にとってなんなのか考えながらそういうことを考えた。

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