見れない映画17:論破③



・特技をやめること

自殺相談者を論破するという坂口恭平の「いのっちの電話」であるが、電話を受けるにあたっていくつか条件を設けているという。

・攻撃的な対応をしてくる人など、一〇年間で六六人をブロックした。
・悪意を感じる相手など、苦手な人はいて、そういう人には苦手であることを伝えている。
・電話が一〇〇件を超えると頭痛がしてくるので終わりにする
・家族との食事や睡眠などは、電話よりも優先する(ことが多い)
・疲れている時は、休養を優先する
・「いまから死ぬ」という”脅し”には対応しない
・(奥さんから見て)時々は強い言葉、厳しい言葉を言うこともある
・「仕事で死ぬやつがあるか」と言って笑う

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』中央公論社、2021年

以上が斎藤環によるまとめだ。本書ではそれから、

・(やる気が出なくなるから)相手と直接会わない
・金銭をもらわない。

という条件も登場する。さらにまとめると、
嫌な人とは会わない、疲れたら休む、直接会わない、脅しや悪意に応じない、お金のやりとりはしない、といったところだろうか。

つまり、自分の生活を、自分の事業を自治していくには、自分が何が苦手かということ、もっと言えば自分がいつ休むのか、いつ辞めるのか、という取り決めが不可欠なのだろう。
なにが得意かではなく、何が苦手かから始まる。私はそこに少し感動した。
会社員だとこうはいかない。家族だって難しいと思う。お金のやりとりで生じる世界のメンバーシップで、メンバーが果たすべき義務は、メンバーであるための条件は組織が決める。社会の中にある組織がそれを決め、社会の条件はそれを維持する法律が決める。

(いや、そうではなかった。ちゃんと自分で詳しく見れば死なないためのルールの抜け道があるはず、というのが坂口の議論だった。システマティックなルールには、システムゆえの抜け道がどこかにあり、ハックすることができる。一人で生きていれば身をやつして、いくらでも生き延びられる。ということだったが一旦これはおいておく)

一方、誰かと一緒に生きていくためには、言葉を交わしてその人同士で果たす役割を承認しあって、その義務ゆえの恩恵に預かる。というのはあたりまえの話かもしれない。
というかそれでこのようなざっくりとした議論ではいけないのだ。
それがあたりまえでないというか、明文化されていないあたりまえをなんとなく知り合った人のうちに共有しながら、お互いに少しずつあたりまえだと思っていることの違いを発見してすり合わせ、すり合わせに失敗したら別れていく人間関係の中で、そういう人間関係だけであれば二人称で完結する世界であるはずのところ、匿名の主語が要求する普通の人の「あたりまえ」を誰かが言い出し、別の誰かが承認する時に、「普通の人なら」という言葉が、あらかじめ存在していた既製品の人間のフレームとしてコミュニケーションの中に生まれる。
コミュニケーションは「普通の人」が出てきたら、個人と個人の間のコミュニケーションは終わりだ。
匿名の、客観の、三人称をどこまでも拒絶して、「私」の基準で交渉する。「嫌な人とは会わない、疲れたら休む、直接会わない、脅しや悪意に応じない、お金のやりとりはしない」これは身を守る術だし、その守られた身がなければ引き受けができないというところで、これは坂口の責任論だと思う。それでその身を社会の常識ではなくて、成熟して大人になることでもなくて、自分の知覚で自分を知ることによってなせというのが坂口恭平だとすれば、それは倫理ではなく美学の議論である。
三人称客観になりそうな話を、当事者同士の二人称以内に収め続ける、いつも私とあなただけの話にスケールダウンし続ける。あまりこういうことは言いたくないけれど、それがおそらく文学的なものの効能、美学的なものの役割があるというところではないか。それでそれを美学的責任とでも呼んでみたいのだが、まだ自信がない。

***

ところで、あなたの特技は何ですか。という質問はとても、奇妙だ。特技というのは結局他人が決めることだろう。

例えば、最近、以前よりも料理をする習慣が増え、つまり私は料理がとても苦手なのだが嫌ではない。
はっきりと手際がとても悪いし、出来上がるまでに冷めてしまうのでレシピ通りに作ったのに美味しくないことさえある。
特に、野菜を切るのと、配膳をするのが苦手だ。
おそらくだが、自分の体の常識に照らし合わせて、扱いやすいように調理器具を配置して、食べやすいように食べ物の大きさを加工して、自分がそれを食べる時のことを想定して料理を配膳するということができないので、私は料理というよりも自分の体の扱いがかなり苦手なのだが、だからといって私は自分がこれを苦手だという事実をものともしない。つまり、苦手であるというのは所詮他人の基準で、苦手だから嫌いだとかやりたくないとは結局ならない。

苦しいというのはうまくやろうとするから起きることだ。うまくできなくて苦しい。一方、手順通りにしようとして工作のように手を動かしてなにかをつくることは私はむしろ好きだ。
うまくやろうとする手本の基準はいつも、私の外側にある。それがうまくいくかどうかの「うまい」というのは所詮他人が決めることだからだ。
「あなたの特技は何ですか」という質問の奇妙さは、それが私の問題ではないところにある。
そんなことを聞かれたら、「それはお前が決めろ」と答えるしかない。私が何が好きか、嫌いか、は自分で決めることができるが、何が苦手かは私とは関係がない。

坂口恭平から学び、自分の苦手なことを自分で把握し、フリーランスとして独立する条件を整える、みたいなことを考えるといかにもそれは自己啓発書のマニュアルみたいだ。私はそんなことを少しも考えていない。というか、ここにはお金のやり取りの話がないので(坂口は「お金の学校」という本も書いているが)、それはできない。
代わりに、私の特性を把握するということ、苦手なことと得意なことの表裏一体としてそこに「ある」私の特性を把握することで、そういう把握で、知らないうちに内面化してしまう「自分の得意/苦手はなにか」という問いから脱出する方法を獲得すること。おそらくそれが芸術だ。

これを無責任だな、と思う私もいるがその私はかなり社会に毒されている。社会が課す社会的責任だけが責任じゃないだろう。既製品以外の責任もあるしそれが本筋ではないか。というのは、本人がリアリティを持って感じられるものでなければいずれにしても引き受けられない。引き受けられない責任を、引き受けたつもりになることのほうがずっと無責任ではないか。
無理がないから。疲れたらやめれば良いから。いつでも辞められるようにしないと、いつまでも、は続けられない。そうでなければ、責任は持てない。
これは理屈としては破綻していて、それがそのまま私が理屈が嫌いなポイントで、理屈を信用してないポイントである。

役割を逃れるために「得意/苦手」から脱出するとき、「私」は匿名の「普通の人間」であることをやめる。
それをやめると、どこの誰であるかを名乗りでなければならなくなるのだろう。美学に支えられた名乗りであれば、身分証も必要ないし、ペンネームでもいい。その名前なら私が引き受けられる。一人称の私が私を信じるその責任が求められているのだ。

・偽の弱者のこと

伊藤昌亮の「ひろゆき論」を面白く読んだ。というか、弱者の定義とひろゆきをめぐる議論としてすっきりと整理された。

プログラマーの経歴に由来する「論理的思考力、創造性、問題解決能力…」に長けたひろゆきのキャラクターは、ネオリベ的な価値観を体現する反面、彼が「ニート、うつ病、生活保護の大人、子ども部屋おじさん」といったいわゆる「ダメな人」に、そんな「ダメな人」でも(アフィリエイトビジネスや株式投資などの(私が別にこの方法を奨励しているわけではない))ささやかな工夫によってその境遇を脱することができると提案する。伊藤はこうして、弱者救済を担うダメな人のためのネオリベとしてのひろゆき像を描き出す。

ひろゆきと坂口恭平は似ているのか、という問いからここまできた。もはや似ているかはどちらでもいいけれど、ニートやうつ病からの救済は坂口能登位の射程圏内ではないか。ただ、坂口は弱者という言葉は使わないと思う。

いわゆる「リベラル」がひろゆきを明確に敵視する事件として、2022年10月にひろゆきが沖縄県名護市の辺野古基地を訪れ、基地建設反対運動をする人を揶揄するコメントをSNSに投稿したことが具体例として挙げられているが、そこで伊藤は「偽の弱者」という概念を提案する。、「リベラル」が想定する弱者:高齢者、障がい者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者 というのが、ひろゆきが想定する弱者と相容れない。
それでそれぞれが「弱者」という地位を奪い合うという話らしいが、私は誰が本物の弱者か、という問題に興味がない。

「彼によればこれまでの日本は、工場のラインに見られるような「横並び」の体制で、「みんながトクする」という構造を大事にしてきた。しかし昨今ではとくにIT産業に見られるように、「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」というビジネスモデルが増え、「ほかの人にも分配する必要がなく」なった。その結果、「みんなのことを気にせず、自分だけがトクする」ことが可能になったという。(…)だからこそ、「日本が「オワコン化」しても大丈夫(…)「国の幸福と、個人の幸福とはまったく無関係」なのだから」」

伊藤昌亮『ひろゆき論--なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか』

というひろゆきの弱者救済戦略を、伊藤はひろゆき側の弱者の連帯不可能性として、リベラルの弱者との差異として描くから、これは経済の話ではなく、政治の話になる。
個人主義の生存戦略まではいい。自分がどのような立場に置かれているかの分析も必要だろう。しかし誰と競争し、誰から何を奪えばいいかというすぐに友敵の話になってしまう。生きていくためにはお金が必要(経済)でお金を稼ぐためには誰から毟ればいいか(政治)、気がつくとこのサイクルに巻き込まれてしまうのが現実であり、社会である。
それで対立を逃れるために、現実とか社会を逃れる。

あらためて、坂口恭平とひろゆきに共通点があるとすれば、それはライフハックの思想による「弱者」個人の救済である。しかし、この「弱者」を、弱者と断定した瞬間にこれが政治の話になる。
ライフハックは要は、個人主義をつきつめた社会からの逃亡であり、坂口恭平はそれを決して「ハック」と呼ばずに、芸術と呼んでいる。というかむしろ、ひろゆきと坂口を重ね合わせると坂口が芸術と呼ぶものが、ライフハックである。彼は何から逃げているのだろう。

「傾聴は僕の苦手な行為です。まず何よりも僕が楽しくない。僕は人の愚痴みたいなものを聞いていられないんですね。その人のペースに巻き込まれたらすぐに鬱になってしまいます。つまり退屈なんだと思います。まずそれが僕の前提としてあります。話は全部聞きません。それは経験から得たというよりも、僕の体質的なところがまずあると思います。」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』、中央公論社、2021年

と言って、第16回の前回にまた話が戻る。彼は人の悩みを聞かずにそれをずらす。それが彼の論破の術だった。彼が現実から逃れるために、現実に囚われ過ぎた人を論破するとき論破は彼の芸術になり、話題の中心が苦しみから悦びに、苦手は才能にすげかわる。坂口の悩み相談の話を聞いていると彼は、同じものやことをただ別の角度で照らしているだけのように見える。

「だからそもそも対話ではない可能性もあります。僕が知りたいのはその人の辛かった話というよりも、その人の体質とか特性とか長所です。なぜなら、これまでいのっちの電話をずっと聞いてきましたが、苦しい人たちの悩みや嘆きには、実は個性がなく、一〇種類くらいのパターンしかありませんでした。(…)悩み方はパターン化されてますが、喜びにはパターンはありませんでした。」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』、中央公論社、2021年

「だから悩みや嘆きを聞いても、何とも感じないんです。その人のその後の未来にしか興味がないのかもしれません。その人が何をして生きていくのかってことに注目してますし、そこしか見てないのかもしれません。それくらい、僕はその人の才能を見出すのが好きだし、見出している自分のことも好きなんだと思います。」

坂口恭平、斎藤環『いのっちの手紙』、中央公論社、2021年

倫理や政治ではなく、芸術と美学の話をしよう、というのはこういうことなのだ。
常識は一般の狂気、芸術は個別特殊の狂気ということを何度も書いている。坂口の議論というのは、一般の狂気というフィクションを解いて、自分の身の丈にあった個別の狂気に逃げろという話で、その術が芸術なのだということだと思う。
として、それは結構しんどい。誰にも共感されない個別「私」特有の狂気を私は飼い慣らして、他の人に説明してそれを生き切らないといけない。
他の人というのは、大体、匿名の社会からやってくる個別特殊の「あなた」だ。「あなた」は「あなた」が誰にも共感されない特別であることを知らない可能性が高い。それが現実だ。
こうして、現実と社会と常識がいつも芸術の逃亡を追いかけてくる。具体的に今、その問題が「弱者」として持ち上がる。個人主義によって現実逃避し、一人でトクをしようとするお前は、社会的「弱者」なのか? 
私は社会が何を弱者と呼ぶか、もっと言えば「私」は「弱者」になりたいのかに、興味がない。それでその問題には興味がない、として振り切ろうとするが、振り切れず打ち返さねばならないところに「術」そのものの難しさがある。

・私たちの芸術のこと

2023年に文學界新人賞を受賞して話題になった市川沙央の『ハンチバック』を読んだときにどうしても意味の取れないところがあって何度も読み返した。
主人公格の井沢釈華が作中論文に自らコメントしていくパートで、「殺すために孕もうとする障がい者がいてやっとバランスがとれないか」と書くのだが、私はこれがなにとなにとの間のバランスなのか、全く読めなくて何度も引っかかった。
そこには、「障がい者を産みたくない女性団体と殺されたくない障がい者団体」の構図がかけられていて、私ははじめ、彼女がどちらの側に与するのかという視点でこれを読んでいた。結果的にはそれが勘違いの元だったようだ。

主人公は、「本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた。」として、市川本人の経歴を連想させる先天性の障がい当事者である釈華。「殺すために孕む」とは、が何度もその願望を口にする、中絶するための妊娠のことである。
そこで当該箇所の「障がい者を産みたくない女性団体と殺されたくない障がい者団体」という対立は「殺す/殺さない」に焦点が当たっているのだが、「バランス」という語彙に拘って読むと、「殺すために孕む」という釈華の主張の登場により、この対立は「そちらが殺すなら、わたしたちも殺す」というロジックに置き換わるという線が見えてくる。逆に言えば、そういうふうにしか私はこの「バランス」という文言が読めない。

これは一般論では決してなく、小説の構成上のロジックであると断っておくが、それで読むなら「殺すために孕む」という表現はもう一方で、釈華が無双する「健常者のような奔放な性行為」の言い換えでもある。
というか、それに気がつくと、彼女の作中のSNSの投稿として「<妊娠と中絶がしてみたい、普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢で>」というセリフが既にあっけらかんと語られていたではないか、と思う。
それを踏まえて、私は『ハンチバック』の冒頭とラストに挿入された異質なパートが構成上のありうべき必然性を帯びてくる。「妊娠と中絶がしてみたい」の強烈なスキャンダラスさに隠れた「普通の人間の女のように」なりたいというストレートな小説のテーマを私はそこで再発見し、その願望の凡庸さにがっかりするのだ。
「普通の人間の女」などというステレオタイプはどこにも具体的な形をとって具現化しないのだ。そんな小説は、少しも面白くないではないか、というのが素直な感想になる。
公平を期すなら、もちろん、市川の精密な描写、隙のない皮肉と自虐に個性と卓越を感じないではないし、評価されるべきかもしれないと思いつつ、ただこの話の軸を貫く「普通の人間の女になりたい」というテーマの面白さは、はあまりに、小説外の事実に依拠したノンフィクション的な面白さに依拠しており、小説内の作法的魅力に欠けるゴシップに見える。果たして作者の出自がどういうものかまったくわからない状態で、この散文が面白いのかは甚だ疑問である。

念の為、述べておくと私は、劇中の釈華の願望の妥当性などは少しも問題にしていない。当該の社会問題について私にはなんの当事者性も、専門性もない。そうであっても彼女の願望はしかるべき当然の願望として読めるし、それは文章の明晰さによるものである。しかし、むしろそうであるからこそそれは社会とか政治の問題なのだ。
社会的問題の非当事者である私が、この読み物を読んで面白いと思い、それは文章の外側の事情に基づく面白さであり、その面白さを面白いものにする基準そのものが面白くないのは、これが小説である時だ。私はそういう立場でずっとフィクションの話を、美学の話をしている。

***

まったくぜんぜん関係ないところで読んでいた本で、私はこの疑問への答えに辿り着く。要するに、芥川賞とはそういうものなのだ、というところである。


「芥川賞は作家の社会性、つまりは男性優位主義を前提とした社会性を枚数として問われる、ようするに私小説としてか事前取材を介した個人情報として作家の社会性を共有しない実験性や芸術性には与しない。(…)芥川賞には普遍的な社会性が要り、家父長制的愛が受賞作にかならず含まれる。愛というマジョリティ性への肯定感がどこかに隠されている、暗号めいたものとして。それこそが文学の文学たるゆえんなのか? いや、文学というより小説という形式が、弛緩していると確実にマジョリティに流れる性質がある。」

町屋良平「私の大江」、「私の小説」河出書房新社、2024年

芥川賞は文芸の賞であり(であるからこそ、なのか、であるにもかかわらず、なのか私にはもはやわからない。私の立場は後者であるが)、それは作品に普遍的な社会性を要求し、その社会性の中身とは家父長性的「愛」なのだという。町屋良平の小説にはそう書かれている。
家父長性的「愛」か。と聞いて、「普通の人間の女」になって子どもを作りたい、という話が寿がれるその地場に、その政治性にただただ納得し、私は自分が青臭かっただけだな、と諦める。私は樋口恭介の「未来」の話を心のお守りにして、もう少しその青さで芸術の話をしたい。
あるいは、「個人を通じて社会の中に(外に?)脱政治化した領域をつくりだすハック行為」という私の芸術観がまちがっているのだろうか。そうでなければ、芥川賞と芸術とがまったく関係ないかのどちらかだ。

急に芥川賞の話など始めたが、私はぜんぜんそんな話がしたいのではなくて、ただ「芥川賞」という芸術と社会との接点である権威のモニュメントの比喩として、ここにこだわっている。引き続き、逃げるにはいつも追手の位置を確認しなければならない逃亡者として揺れ動く現実の横顔を伺っているが、ちょっと逃げきれなくなってきたかもしれない。

ところで、こんな議論に関わるつもりなどまったくなく読んでいた町屋良平の『私の小説』に私は突然、大いに勇気づけられる。『ほんのこども』(2021)で繰り広げられた、芥川賞作家である自身の小説が、かつての友人「あべくん」の文体の剽窃であったという告白によって創作そのものの加害性との向き合いが、『私の小説』という連作短編集ではさらにぐつぐつに煎じ詰められる。
ペンネームでありながら、「小説を書く町屋良平の小説」であることから逃れられない彼の小説は、現代の文学に外からの政治問題として襲い掛かる「当事者性」の力学を無視しては決して読めない。といって私も別に詳しいわけではないが、読みながら2018年の北条裕子『美しい顔』のことや、2019年の古市憲寿『百の夜を跳ねて』のことや、2021年の桜庭一樹の『少女を埋める』のことなどがよぎる。
それで「私の小説」は身元の破れた「町屋良平」という小説家がそれでも小説を書くことへの申し開きなのだ。

ごちゃごちゃは書いたのだけれど、私は町屋良平のただただ小説を愉しむ。たとえば、これだ。

「私はだれか他者に正直になるということができない人間だ。つまらない異常さをおもしろくすることはできない。私のつまらないインモラル、私のつまらない反社会性、私のつまらない性癖を、そもそも私たちは創作しているというその時点で加害的で、被害者の顔をすることはむずかしく、フィクションの登場人物にそうさせるように、自分やだれかの人生をおもしろいとおもい、そうなるように寄せて考えること自体危うい、ますます危ういものとなってゆく。人間という生き物の根元的な暴力として「おもしろい」とはなにか?ということがつねに問われているのは、どのような時代においても変わらずまだ見逃されているにすぎない。加害的立場におりながら、加害側のなかで被害者の顔をするためになんだってする、それが私の考える父権的ヒロイズムだ。」

町屋良平「私の推敲」「私の小説」河出書房新社、2024年

「おもしろい」ということの加害性について表現を論じたこの一段落で、本当はこの後に長めの一文が一つ加わるのだが、私はその文の意味が読めない。
「おもしろさ」のために表現の中に酷使される人間がある。だから、他人をフィクションにする人間はその人を疎外するので、自分の話をする。それで私小説ばかり書いていると自分への疎外が起こる。現実社会で自分に正直に生きれないから小説を書いていた私が、小説家になることで小説内の「私」に振り回されるようになる。
論としてはおよそそのようなことなのだろうけれど、別にこれは論ではなくて小説だから、結論が出そうなところで、意味の取れない比喩が出てきてちゃんと表現になるところで私は町屋に敬意を示したい。
それで結論ではなくて、「私」に私が振り回される中で、社会性の代わりに数多のフィクション作品から言葉を培い、ボクシングに男性社会を仮託して芥川賞をとった芥川賞作家である私が、大江健三郎の小説に勇気づけられながら個と社会のあいだで宙吊りにされた「私」を生きると書くところで、小説家のドキュメントがメタフィクションとしてまた小説になる、みたいな感じだろうか。
それで現実を生きる私と、小説の「私」との折り合いを模索する中で動的に文体の中で揺れ、崩れ、他のものと混じっていく「私」を再発見するその過程自体を書いてしまうところに町屋の「芸術」の達成がある。

「パスが詩と歴史、イメージと地理、神話と心理学、リズムと意識、批判とイメージ、散文と詩、概念と神話の狭間を絶えず揺れ動くものとして定義した小説の、その中間につねにあるもの。それこそが各人それぞれが持ち寄る「私」の「文体」かもしれない。それぞれに違う生を、それぞれに違う身体感覚を生きる人間の普遍に繋がれる「私」を「文体」意識をもって描く際には、言葉と私との妥協を是非とも要する。ほんらい近代小説依頼の「私」に閉じ込められるよりもっとおおらかな「私」であることでようやく読者の「私」と語り手の「私」は共鳴する。これが先見的な私感覚、いろんな人間のなかにいる「私」の根っこに共通してある「私の私」ということになる。だからひとはしらない作家の「私小説」を読んだときに、その作家のことをまったく存じていなくともこれはこの作業にとっての「私小説」なのかもしれないと思うことができる。「私」への妥協こそが小説であり、社会なのだ。「文体」は作業ごとの文章スタイルという以上に私とあなた、つまり作家と読者が共有しうる身体となって世界をともに見る。言葉を読み書きする交通によって、複数の体を束ねるその運動こそが「文体」だ。だから小説の文章は書き手と読み手それぞれに異質な集中を要請する。それは読者と著者の身体のあいだを絶えず揺れ動く、二つの違う身体感覚を持つ人間がおなじ風景をともにみるための読書という共同作業にて構築された後には消え去るしなやかな身体になる」

町屋良平「私の批評」、「私の小説」河出書房新社

私は保坂和志のエッセイでたしか、このオクタヴィオ・パスの云々を読んだことがある。パスに勇気づけられながら「文体」の中に複数の身体の折り重なりを見る町屋にまた勇気づけられながら私はまだ芸術で現実から逃げる術を探している。現代の国内の小説を読むうちは、それを芥川賞の顔をした現実が追いかけてくる。
町屋は小説の「文体」の中で、「私」がずれ、壊れ、他の破片の混じり合うことに「社会性」を見ているというのだが、それは必ずしも父権性(ヒロイズム)ではないだろう。あくまでそれは「私の社会性」に過ぎないものだろう。社会の中に「私の社会性」を作り出していくことに芸術の道があり、それは逃走経路であり、「私の社会性」がある「私の社会」の中では政治を逃れるロジックがはたらくこともできるはずだ。
直感的に言って、それは私による私からの逃亡である。

・現実宿りのこと

坂口恭平の小説を読むつもりでいろいろ書いていて、かなり脱線してここまできた。
結論から言うと『現実宿り』(2016)は信じられないほどの途方もない傑作だった。ベケットの『モロイ』の大ファンである私は、こういうものを書く日本人がいることに心底感動している。彼の新書を読んで、客観性のない実体験の語りに辟易してしまい、『徘徊タクシー』だけを読んでピンと来なくてしばらく彼の書くものを倦厭してきた自らを大きく恥じた。

一言で言うと、これは砂漠の砂を一人称にした小説なのだが、なぜこのようなことが可能なのかはまったくわからない。毎日新聞のインタビューで「頭の中が砂漠だ」というのが口癖で、その意味を書いたと執筆動機を説明する坂口のコメントもそのままは飲み込み難いが、つまりこの砂漠というのは彼の意識のあり方なのだろう。砂漠の一人称を読んでみる。

「砂はときどき移動しては、街を渡り歩いていた。集団は山をつくることもあった。山の周囲を濃い灰色のベルトのような空気が囲んでいる。わたしたちは贅肉なのかもしれない。獣の内臓にいるような感じだった。風が吹いていたのに。わたしたちは外にいたはずだ。光のせいなのかもしれない。わたし、とつい口にしそうになった。風がそれを横目で見ている。お前はどこから来たのか。一言も口にしない風は、ただ吹くだけだった。何にもない。それが砂漠だ。」

坂口恭平「現実宿り」河出書房新社、2016年

「わたしたちは一つの装置だった。わたしたちは自分の体を自分たちのものだと認識していない。かといって無意味なものだと思ってもいない。別に諦めてもいないし、かといってなにかに必死にしがみついているわけでもない。わたしたちはただの装置なのである。それは動かない装置ではないが、電源も不要である。わたしたちは目には見えない。もちろん、砂である。砂のままだ。しかし、いま、わたしたちは植物の力を借りている。植物を見ているのでも、森の中を歩いているのでもなく、わたしたちに植物が入り込んでいる。わたしたちを植物が操縦している。信頼関係もなにも必要ない。信頼とは、わたしたちが体を持っているということであり、その躊躇だ。わたしたちはただの砂であり、砂ですらない。記憶するということができないのではなく、それがただわたしたちの記憶ではないということなのだ。わたしたちはつい、忘れてしまうことを、記憶を失ったと感じていた。どうやらそれは勘違いだったようだ。暮らしている空間が、時間とはつながっていないことを知り、少しずつわたしたちの体から抜け出すことができたような気がする。誰かが教えてくれたわけではない。わたしたちは森の夢の中をただ歩いていた。」

坂口恭平「現実宿り」河出書房新社、2016年

人称の問題で見るならば、これは「私たち」の、一人称複数の文章なのだが、砂というものになった人間の人称である。つまり、複数の人間を束ねてひとつにまとめる「私たち」ではなく、一人の人間の「私」がばらばらに崩壊していきながら集合的に何かを語る「私たち」である。「私」の崩壊としての「私たち」が語る、意識のドキュメントという点で大変、特殊な小説に見える。
というのは、言って終えばこれは変性意識の小説である。

「わたしの話を誰も聞いてくれません。わたしにできることといえば、唯一、模倣することです。わたしは一度聞いたら、それがたとえどんな言葉でもすぐに覚えることができるんです。読み書きはできません。すぐにあの人も出てくるし、あの人はむちゃくちゃにしてしまうんです。わたしがうまくいっているときでも、すぐにあいつが出てきて、むちゃくちゃにしてしまうんです。わたしには好きな人がいました。でも、その人のことを好きになりすぎて、気づいたらその日からその人になってしまってました。体型も、仕草も、口癖も、声の高さも全部模倣してしまって。その人自身になってしまうんです。わたしは女です。だけど、気づいたら、男になっていたんです。(…)それでもあなたはいつも声を聞いてくれるから、わたしは真似することをやめません。でも、本当はただ好きなだけなんです。わたしはあなたのことが好きなのかもしれません。わたしは姿を消してます。いまはどこにもいません。わたしを探さないでください。わたしは声だけで、あなたの真似をしたいんです。これは真似ですらないんです。これはあなたですから。あなたはなぜわたしの真似をするんですか? それがわたしには理解できません。あなたのことは知ってます。会ったことはないと思います。あなたの意味での会ったことはないと思います。でも、わたしはあなたになってますので、実は他の人があなたに会ったことはあるかもしれません。」

坂口恭平『現実宿り』河出書房新社、2016年

この模倣しかできない人の一人称が、「あなたはなぜわたしの真似をするんですか?」のところで、実際に書きながら「わたし」が「あなた」になってしまうときの単純な仕掛けの中にあるジャンプに二人称の小説の骨頂がある。古谷利裕の認証の不安定さに似ているが、坂口はもっと荒々しい。

「おれは鳥の中にいた。間違っても死んではいない。その自覚はあった。自覚があるくらいだから、死んじゃいないだろう。しかも、今こうしておれは声を出しているわけだから。しかし、鳥の中に入ったのは生まれて初めてで、なるほどこんな感じなのかっておれは穏やかな気持ちになった。食べられたやつの話なんか聞けないからな。おれの仲間だったあいつも穏やかだったんだな。あいつもまたどこかで生きている。おれはそんなことを考える余裕すらあった。鳥は勢いを増して、どこかへ飛んでいった。鳥は森に戻っていた。おれは自分の体が少しずつばらばらになっているのを見ていた。この目で見ていたんじゃない。分解されたおれは、それぞれに触覚を持っていた。だから自分がどうなっているのかをいろんな角度から眺めることができた。中には俺じゃないやつも交じっていた。とてもじゃないが、おれとは思えないやつもそこにいた。そいつがおれのことを笑った(…)おれはそいつに「いつからここにいる?」と聞いた。すると、子供は「鳥が生まれる前から」と言う。「そんなわけないだろう。鳥が生まれる前はどこにいたんだ?」と聞いても「ここにいた」の一点張り。「ここってのはどこなんだ?」と聞くと「いろんな生き物の内臓」と言った。そいつはどうやらいろんな動物の内臓から内臓へちょとと飛び回ることができるんだと。だから、そいつは別にこの鳥の中にいるってわけじゃない。突然、おれは手を引っ張られた。おれの一部は、鳥の鳴き声を聞いたり、糞になって外に飛び出したものもいた。どんどん頭の中に、いろんな景色が見えはじめ、おれは完全に混乱した。おれはもうすでに蜘蛛でもなんでもなくなってた。おれは鳥のような気もしたし、子供の仲間かもしれなかった。しかしその区別も、もうどうでもいい。おれがそのとき感じたことは、その区別がなくなったという確信だ」

鳥に食べられるほど小さくばらばらになる意識の話。驚くべきは、このように小さくばらばらになってもその人に声があり、触覚があり、手を引っ張られ、頭の中で景色を見ているということだ。それはばらばらであることと、身体を持つことが矛盾しながら両立する意識の状態なのだ。ばらばらでありつつ、身体の感覚がある。二重化した身体への意識の感覚というのはまた、夢に似ている。
『現実宿り』には、「おれたちはなんでも夢を見て決めているんだよ。目の前のことよりもまずは夢が重要なんだよ。それで朝、集まって食事をしているときにそれぞれに見た夢の話をする。」と語るモンゴル人が登場する。
これは夢の話であると、と言うことはいくらでもできるが、坂口にあるのは質量で迫る、このリアリティへの強烈な思い込みである。
古谷利裕とは同じテーマに、別の方法でアプローチしているように見える。

古谷の小説に触れて、いぬのせなか座の山本浩貴が言及した「模型」と「夢」という喩を私なりに曲解してみる。

意識の二重化という離人状態がある種のシミュレーション感覚を文章の中に引き起こす。
ばらばらであること、「私たち」であったり、非常識な身体の配置になったり、物と身体とが等価になるとき、統一された身体とインテリアのように再配置された身体の二重化できっと模型の感覚が表れる。
因果関係が破綻して、時間が流れなくなったときに、流れている時間と流れていない時間の二重化で、夢の感覚が表れる。
私はそれをお守りに、もう少し私を逃れるための私の芸術を夢想する。というかこの現実の脱出は究極的には、死なない方法になると思う。


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