見れない映画25:町屋良平「小説の死後ー(にも書かれる散文のために)ー「批評」しやすい吉井磨弥、「批評」しにくい青木淳吾」を読む


・町屋良平の批評の三つの面白さのこと

 群像2024年11月号掲載の町屋良平「小説の死後ー(にも書かれる散文のために)ー「批評」しやすい吉井磨弥、「批評」しにくい青木淳吾」が大変面白かった。(以下、「小説の死後2」)以下が前回について読んだもの。

 この面白さの由来は三つあると思った。

①これが小説家、町屋良平による小説書きの指南書であるということ
②一方で、町屋による小説観は人生観を兼ねているためそれがそのまま小説を書かない、読まない人にも人生論として開かれようとすること
③かつて推敲せず一筆書きに書く小島信夫的作風だった町屋が、キャリアの中で大江健三郎的に何度も書き直す作風に変わり、再び批評のプロジェクトを通じて小島的な初心を取り戻そうとすると宣言され、それでこれが町屋本人に向けられた私小説になること

つまり、①においてとても具体的な話であり、②において開かれた話であり、③において小説なのだ。詳しく読んでみるにあたって②、③を意識しながらも基本的には①について具体的に読む。
それはそのままいったん、町屋による優れた小説の定義(町屋はここで多くの人が優劣を基準に小説を読む必要もない、とも書いていてその書きぶりも大変誠実である)とはなにか、という話になる。これも大変明快に町屋は二つの観点を挙げている。

・「使える小説」であること
・「身体」、「世界」、「人生」を縮約しないこと

 「使える」というのは、今後何年も「小説を書く人の技術のために使える」ということで、一旦はあくまで小説書きにとっての小説の面白さの話になる。それで町屋にとって面白い小説とは、余分のある小説らしい。彼は「むしろ面白くない小説の文章は読みやすい」と言ってのける。
 「読みやすい」文章とは、町屋によれば大人の世界の(社会の)定型表現でできた文章のことを指しているようだ。要するに普通に生活をしていると私たちが目にする文章というか言葉というのがほとんどこれなのだ。ニュースでも、暮らしの役立ち情報でも、広告でも日常会話でも、家電の説明書でもなんでもいいけれど、内容に価値があるとして言葉で発信される情報は、それに注目がいかないように表現は暗黙の枠の中に収まっている。
こんなことはあたりまえで、言わなくてもいいことかもしれないが、まあそれに一応ひっかかっておくことから多分、小説が始まる。
それを踏まえて町屋の小説指南として読むならこれは、いかに余分にものを書くかという技術論(比喩や会話文についてのかなり具体的な指摘もある)になる。企画の中心をなす具体例、青木淳吾「四十日と四十夜のメルヘン」をして町屋は、内容ではなく、表現についてひっかかるもの、その必然としての内容のあるもの、として以下のように評している。

「書かれている内容と同様に、というよりそれ以上にこの書き方により強調される、こうした社会どころかなにとも繋がっていないような語り手の意識は、どんな読者にもあるモラトリアム、というよりも子どものような意識に訴える。エンターテイメントと呼ばれる小説の多くが多少なりとも既存の、大人の社会システムを承認していないと楽しめない一方で、文学には時折その限りでない作品と出会える。一般的に「わからない」と言われる小説世界のとっつきづらさは実は、突き詰めて考えれば子どものような意識を大人の語彙によって召喚するような作品の場合がある」

小説の死後2

 翻せば、この「わかりやすさ」というのが、大人の社会システムへの同化作用のことであり、大人の社会システムというものがまた優れた小説の形式を見渡すものさしとして機能する。
 つまり、大人として大人の社会システムを受け入れるというのは個人の身体、人生、世界観を暗黙のうちにそのシステムの観の内にあてはめてその外などないとして振る舞うことであり、その外を意識して炙りながら言葉をずらすのが純文学で、一方、この社会システムの承認を通過していく言葉で描かれた物語が娯楽であると、一旦は町屋の小説観が読める。
 町屋は自らこうした純文学への態度を「言語的モラトリアム」と言い換えてみせるのだが、そこに町屋の戦略の危うさ、純文学がその社会的に未分化な「子どもたち」だけのものに縮約する危うさがある。これは町屋の論に関する危うさだけではなく、小説家でありつつ批評を書くことからくる立場の微妙さ、つまり、作家としては青春小説の作家でありつつも批評としてはもっと広く読むべき風呂敷を広げてしまっているというか、小説家であるからにはいろんなものを読むのであろう町屋は読者であり、読者であるために批評が必要なのだろう。

 私は批評の将来など、正直どうでもいいと思っているし、日本における批評や評論の「シーン」も自分とはほとんど関わりのないものだと思っているし、社会反映論的な文学批評は読む機会さえないのだが、それとは全然関係がなく、ヴァージル・アブローについて書いて考えたときに批評はマーケティングとかブランディングとか広義の別の呼び名の中でいつも活況である。批評のシーンが消えたとしても受容者、つまり書かれたものの読者はなくならない。人は言葉だけ渡されても読めない。作者と読者の関係モデルがなければ読めない。だから、それが批評とは呼ばれない形になったとしても読者のモデルとしての批評はいつまでも必要とされる。

・気の狂うほどの多様性

  言葉は人でも物でもないので言葉が身体、世界、人生を縮約しないまま表れることはない。だからそれが社会システムの外に成立するとすれば、社会システムの中とは相容れない表現、または社会システムの形式をキャンセルする表現としてあるはずである。
 社会システムの中にある定型の言葉とはなんなのか。類型をそのままいつまでも列挙することはきりがないし、社会システムの変化に伴って変化するそれを一言で言い表すことは難しいけれどこうは言えると思う。わかりやすい言葉とは、意味がわかりやすい言葉である。では、小説の意味とは何か。それは物語ではないのか。だとすれば、わかりやすい小説とは物語がストレスなく読める小説に違いない。そこで、村上春樹である。

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考え出したら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。」

村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」

 村上春樹の表現の異常さを見てみよう。「踊り続けるんだ」「踊るんだ」「踊り続けるんだ」「考えちゃいけない」「考えちゃいけない」という異様なほどの意味とリズムの繰り返し、「そんなことを考え出したら足が停まる。一度足が停まったら」と、「そんなこと」「停まる」⇨「停まったら」と誤読を許さない極端な読みの安全運転の誘導。定型表現で物語を語るのがエンタテイメント出るならば、定型をはずれるほどの易しさで意味=物語へと誘導するのが村上春樹の純文学である。その誘導された先にある内容が「意味はないから踊り続けろ」なのだ。
 つまり、社会のシステムの定型表現というものと、小説の定型表現というものを分けて考える必要がある(が実は、分けられない)。社会のシステムに意味はない、社会のシステムから脱出せよという物語を社会のシステムの言葉で書くことはできる。ほら、このように。と言ってしまいたいくらいだ。しかし、それは定型表現を脱出するということを意味しない、というか、脱出そのものが社会の中の物語として消費可能な物語に回収される資本主義の懐の深さがある。あるいは、「意味はないけれど踊り続けるしかない」と言われたところで、本当に踊り続けることはできない。疲れるからだ。余分としての疲れる身体がここにあり、その余分でこうして生きている。

 (物語批判として町屋の論は読めないだろうか。すると、吉井磨弥『ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ』は、寓意としての物語を残しているし、それはそれだけ聞けば、村田沙耶香の『コンビニ人間』か、ローラン・ビネの『HHhH』の類型ではないかと考えることもできる。しかし、定型社会の労働を風俗産業の中で比喩を用いない「レシートを読み上げるような」やり方で語ってみせるその比喩の拒絶という点においては、比喩的にこの小説を縮約することはできない。
一方、青木のそれは物語の「手前」にある日記の表現である。

(私の青木淳吾『四十日と四十夜のメルヘン』の読みは先の記事に。一言で言うと、これは小説ではなく書かれうる小説の構想である。そういう意味でボルヘス『八岐の園』によく似ている。書かれうる小説を構想しながら書かれた日記ということで、物語の「手前」にある表現である。(保坂→青木、保坂→山本)この「手前」という単語は山本浩貴(いぬのせなか座)の『新たな距離』から着想しており、これも読んだ記録をこの日記に書く予定だが、その記事にこの思考は引き継ぐ)

 物語批判として町屋の小説批評を読んだときに、物語批判は疲れる。それぞれにばらばらなことをする子どもに、子どもたちにいちいち付き合って遊んではいられない。しかしというか、なぜなら私には私のいちいちがある。「一緒に生きる」という表現を見たのが大変魅力的であった。この意味に還元できない疲れて残る身体の部分と町屋は一緒に生きるために批評をするというふうにまた町屋の批評を読む。

「批評とは、けっきょく読み手がその作品を「面白い」「面白くない」と価値判断したからこそ生まれる、事後的で補足的な思考に過ぎないのだろうか。しかしだからこそその「面白い」「面白くない」の価値判断の果しなさ、たよりなさ、多様性に気が狂うようなことに、歯止めが利く側面があると思う。(…)あなたはなぜその小説を「面白い」「面白くない」と思ったのか。その言い訳のようなことをくだくだとずっと聞いていたいという気持ちが私を批評に向かわせるが、それはひとりで多様な「オモシロ」に向き合っていたら気が狂いそうだからだ。」

「小説の死後2」

 縮約できない表現を言い換えようとして「面白い」「面白くない」で読みを一旦止めて、疲れて気が狂うことに抗うが、なぜ「面白い」「面白くない」のか考えて、読みを再開して、その表現と共に生きる。この生きる場所は物語にはなく、物語の手前にあるということで「手前」のほうへもう少し思考、思考しようと日記をまた書く。

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