見れない映画8:1999年の黒沢清


・『CURE』(1997)のこと

ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(1951年)の原題​​「Journal d'un curé de campagne」には「CURE」の4文字が入っている。英題は「Diary of the country priest」で、邦題も英題も意味は変わらないため、この「curé」とはつまりpriest、教区司祭に相当する語彙にすぎないのだけれど、それに気づいたとき私はブレッソンのこの映画と黒沢清『CURE』に連想ゲーム的な共通点以上のなにかがないかとすぐに探しはじめた。すなわちここで探索すべき問いの答えとは、CURE=治療とはなにについての治療かということだ。以降では、この日記の第3回の「時間」の話を踏まえたい。

『田舎司祭の日記』には、主役の司祭と息子を失った領主婦人とが対話する場面がある。婦人は亡くなった子の喪に服し、悲しみの中で彼の写った写真が入ったメダルを手放すことができない。「神に息子を奪われてこれ以上、どんな罰が」と息子の死を嘆く彼女に対して、司祭は「愛は虚構ではない。神は愛の主人ではない。神は愛そのものだ」と説き、そのメダルを捨てさせる。その後、婦人も司祭も亡くなってしまうのだが、では一体、このやりとりはなにを示唆しているのだろう。
それは単に、キリスト教の特定宗派における偶像崇拝の拒絶を示した一つの説話と説明してしまえばそれまでのことかもしれない。しかし、なぜ偶像崇拝はいけないことなのだろう。「CURE」に引きつけて、それはなぜ「治療」すべき異常なのだろうか。異常だとすれば、なにからの治療なのだろう。
ここで、「curé」に拒絶されているものとはつまり、写真である。司祭はそれは息子ではなく、ただの紙切れであると婦人に力説する。司祭はそのようにして、亡くなった少年かのように見えるものを捨てさせようとする。写真は息子そのものではない。そこにはいない亡くなったものを表象するなにかにすぎない。であるとすれば、司祭が試みる治療とは、「見えない」なにかを、「見えるふりをすることをやめよ」と呼びかける行為なのだ。とすればここにおける治療とは、虚構から立ち直ることを指すのではないか。

黒沢清監督『CURE』は、謎の催眠術によって不特定多数の人に殺人衝動を植え付けていく間宮という謎の男と、彼を追いかける刑事の物語だ。しかし、映画を具に見ていくとそれが物語であるかのように振る舞うことが一層、奇妙に見えてくる。間宮はいかにその殺人衝動の伝染を可能にするのだろうか。そもそも彼は記憶喪失によって、意図というもの自体なさそうなのである。彼は相手に何かをさせようとさえしていない。彼はただ、手近にある火や水に意識を集中させ、相手に相手のことを教えてくれと呼びかける。だから間宮の催眠術はむしろ、なにかをさせようというよりむしろ、相手の、すでにそのようである状態を「解いている」というほうが近そうなのだ。火や水や光を見つめること、自然に流れる時間を直接感じること、それはこの第3回で述べた「時間イメージ」の表象にまさしく当てはまる。
しかし、「時間イメージ」とは人を死に誘うようなかくも恐ろしいものなのだろうか。単なる映画の表現や、吉田健一によれば現実の暮らしの中にあるちょっとした感覚の変化の一コマに過ぎなかったのではないか。なぜ「CURE」と名のつく二つの映画の中でそれが恐ろしい効能を発揮してしまうのか。その予期せぬ意味のジャンプについて詳細に迫ることは難しい。しかし、「時間イメージ」とは何を「解く」ものなのかについては類推できる。「時間イメージ」と対比の関係にあるのは「運動イメージ」という概念なのだと、先の回で述べた。それは、物語の中で意味を発揮する運動なのだ。
「運動イメージ」は、こうして物語と紐づいている。であるとすれば、『田舎司祭の日記』と『CURE』に共通しているのは、「時間イメージ」を使って「運動イメージ」のような、目には見えない物語的な意味を認識することをやめよという、呼びかけではないのか。だとすれば、というかだとしても『CURE』の間宮という男はそのようなことを一つも意図のしようがないのだ。彼は別に連続殺人事件の企図者でも、宗教家でもない。ただ催眠術の才能を持った記憶喪失の男である。おそらく彼自身にそもそも時計の時間、物語の時間、「運動イメージ」の時間というものがないのだろう。そして、なぜ彼の催眠が殺人事件を導くのか。そのジャンプは、多くの人が彼のように記憶のないまま生きていくことができないというところから類推するよりほかない。運動イメージをやめること、物語を信じるのをやめること、それは間宮のように記憶喪失のまま何にも意味を見出さずに生きることなのだ。そういうふうには普通の人は生きていけないのだ。つまりこれが、「時間イメージ」を生きるノイズに溢れた生活なのではないか。
以下では、それを『CURE』に限らず、黒沢清の映画の特徴ではないかと考えるところから始めてみたい。先の第7回で述べたように黒沢清が物語と対立する表現を描く作家であるとするならば、彼は「物語からの治癒」を描く作家ではないのか。黒沢清の映画は他の映画でもこのようにして、「見えないものを見えるふりをするのをやめよ」と問いかけているのではなかろうか。そのように思考するところから彼の90年代のいくつかの作品を検討してみたい。

・『蛇の道』(1998)と『蜘蛛の瞳』(1998)のこと

「間違いないのか」と語りかける復讐者に「どうせ気質の人間じゃない」と答える介助者のやりとりから『蛇の道』という復讐劇を模した滑稽譚は始まる。そのやりとりから想起されるのはこれから始まる復讐という任務の杜撰さだ。そのあらかじめ仕組まれた杜撰さによって予定された物語は絶えずずれていくこととなる。
娘を組織に殺された宮下という男が実行犯と思しき男を誘拐して生きたまま廃工場に監禁して尋問すると、その犯人と思しき男が罪を認めず、別の犯人の名前を示唆するので、復讐者は次々と連れてこられた新しい犯人に同じ仕打ちを繰り返す。かくして復讐は本意を遂げぬままに失敗し続ける。それが宮下の介助者、数学教師の新島の視点で語られる。娘が受けた凄惨な強姦殺人の被害記録を読み上げる復讐者の儀式は、最初こそその詳細ゆえに聞くも無惨な想像をかきたてさせるが、生真面目に同じ文言を、別の犯人候補に向かって繰り返すうちにグロテスクな描写のひとつひとつから呪いが解けるように不気味さが失せてしまう。つまり、繰り返すことで、シリアスな復讐は滑稽な喜劇に化けてしまう。
繰り返される連行と、復讐の失敗。いったい、この男は本気なのか、ぬるいのか。ここで起きているのは悲劇なのか、喜劇なのか。その目眩のなかでなんとなく思い出したのは、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』にある村上春樹評である。名前も覚えていない女について、その死をめぐる数字については列挙せねばならない『羊をめぐる冒険』冒頭の空虚さを、蓮實が「このこだわりを欠いたこだわりぶりこそが、村上春樹の語り方に他ならない」と評した。いったい村上春樹はこだわっているのか、いないのか。村上春樹のこだわりのなさへのこだわりぶりと同じように、黒沢清の不気味さを執拗に「解く」ことへのこだわりがまた不気味さを醸すのだ。

蓮實重彦『小説から遠く離れて』とは、村上春樹、井上ひさし、丸谷才一、村上龍、大江健三郎、中上健次ら同時代の小説がいかに物語としては互いに似通った構造を持ち合わせているかを比較検討した上で、そのような類型をなぞる物語というものから区別される形、小説の試みはいかにして可能か検討した批評であった。であるならば、黒沢清の『蛇の道』と、実質のその続編にあたる『蜘蛛の瞳』について、もちろんこれらは小説でこそないが、『小説から遠く離れて』のような物語の類型が適応されているのではないか。『小説から遠く離れて』では、以下の5項目がこれらの小説に共通した類型として挙げられている。これを黒沢清の映画に当てはめてみよう。

①宝探し
②依頼・代行・出発
③不可視の権力者
④潜在的な双生児
⑤女性の演ずべき役を物語から奪ってしまう。

『蛇の道』について言えば、

①復習すべき真犯人探し
②宮下による新島への援助(代行)依頼と出発、
③不在の組織の中心人物
④終盤に新島が宮下と同じ同期の復讐者だと判明すること
⑤活躍を欠いた組織幹部(檜山)の愛人(コメットさん)あるいは、殺された娘たちの母親

以上のようなかたちで、その類型を満たすことになる。こうして『蛇の道』は、物語の予定調和を辿りつつも、繰り返しのモチーフを徹底することによって、終わることのできないという矛盾した奇妙な結末を迎える。
自分の娘を殺した犯人を探していた宮下もまた、かつてはその組織の一員だったことが話の中盤で明らかになる。最終盤では、宮下同様に組織の犯罪で娘を失っていた新島が、宮下を利用しながら組織を壊滅させようとしていたことが露わになり、新島が宮下にその素性を明かして宮下への復讐を遂げると、物語が終わると同時に、新島が宮下に成り代わり復讐者となることまた、復讐の物語そのものが終わることができずに繰り返してしまうことが示される。

『蜘蛛の瞳』という実質の続編を見ると、さらなる繰り返しのモチーフの徹底ぶりは見てとれる。別の犯人、別の死因ではあるものの、同じ哀川翔演じる「新島」なる男が、娘の死に関与したヤクザ者への復讐を果たすところからこの映画は話は始まる。娘を失った男は空虚な夫婦生活を過ごすうちに、岩松という旧友に再会する。岩松は、ヤクザまがいの借金の取り立て仕事を新島に依頼するが、やがて新島は抗争に巻き込まれ、別の男から岩松の組のスパイまがいの仕事を任され、組織を壊滅させて岩松を手に掛ける。大枠としてはこの、依頼、代行、組織の壊滅という点が『蛇の道』の反復となる。
終盤、新島は自身がかつて復讐を果たした男が植物状態になり、妻か恋人かと思しき女に車椅子で押されていくのと遭遇する。なにかを諦めるような視線をそれに投げたあと、次のショットで新島は野原で、それまで彼のトラウマとしてそれまで君臨してきた亡くなった娘をかたどる白いシーツをまとった人型と向き合う。最後、シーツをめくってその中身がただの丸太であることを発見するのだが、この丸太が丸太であること、何の意味もないモノとしての存在感を発揮するときの異様さは筆舌に尽くし難い。その迫力とはつまり、「見えないものを見えるふりをする」ことをやめた者の前にだけ訪れる風景だろう。こうして、新島は類型的な物語からの治癒をほどこされるに至る。

・『カリスマ』(1999)のこと

『カリスマ』は一層、顕著な形で、『小説から遠く離れて』の物語類型をなぞる作品と言える。犯人と人質とを両方、死なせてしまったために心に傷を負った刑事・薮池は、「カリスマ」を守るかつて敷地内の病院の入院患者だった桐山という男に頼まれる形で、山奥の病院跡地に佇む一本の樹木「カリスマ」をめぐる争奪戦に巻き込まれる。先の5項目に照らし合わせると、以下のようになる。

①樹木「カリスマ」の争奪戦
②桐山→薮池
③亡くなった病院の院長
④藪池・桐山/藪池・院長/薮池・カリスマ
⑤カリスマの破壊に失敗する姉妹

類型的な物語でありながら、黒沢清自身、スティーブン・スピルバーグのインディ・ジョーンズシリーズから着想を得たという本作は、「圧倒的に面白い映画」に類する逸品と言えるもので、表現の次元において、やはり「物語」の外に出ていく。『蛇の道』『蜘蛛の瞳』と異なるのは、それが同じ物語を内側で繰り返すのではなく、ことの発端の「宝探し」というモチーフをたどって、なぜその宝を皆が欲しがるのか、映画の暴力を巻き起こすその起源に遡る。
戦前、怪物的な権力者として病院に君臨した院長の持ち物だった「カリスマ」という樹木には、森全体の養分を吸い取って周囲の植物を枯らす特性がある。その争奪戦は主に三つの立場の者たちによって引き起こされる。それは、①カリスマを守ろうとする者(桐山)、②その害を見越して破壊しようとする学者(神保)、③その珍しさを見越して奪って金品に変えようとする者(中曽根・猫島一派)らの三つ巴である。
第4回目で見たように、私たちは家畜的存在として、資本主義・個人主義が徹底された社会の中で暮らしているが、この安心で安全な社会というのは要するに、みんながお金の価値を信じる社会である。その貨幣の価値を政府が保証してくれるため、お金の奪い合い、競い合いというのはあくまでその外にある暴力から守られた中でのゲームにすぎない。つまり、宝探しというのはある次元で、お金よりも価値がある何かを奪い合うことによって、価値というものの揺らぎによって私たちの暮らす社会の秩序を揺さぶるのだ。私たちの日常生活を作っているのはつまり、その価値が決定した後の③が支配する世界であり、例えばお金以上に価値のある道義や宗教(①)、知性やそれに紐づく安全性(②)が私たちの生活から完全になくなって消え失せるということはないものの、①、②、③がその優先順位を競い合う事態というのは、私たちの安心・安全を保証する政府が弱体化でもしないかぎり訪れることのない自体であることは想像可能だ。すると、それがいかに災害的な緊急事態かわかるだろう。つまり、「お金がない」ことばかり気にかかる社会というのは、それだけで一定、安全な社会であり、なにもここで社会の構造の話までするつもりも本当にはないのだけれど、少なくともその外にある闘争状態の危険な世界を『カリスマ』という映画はたしかに描いている。
そういう点で、たしかに『カリスマ』はインディ・ジョーンズなのだ。「宝探し」というモチーフが根源的に持つ、私たちの社会を基礎で支える価値の起源に遡るという、考古学の物語がここでは描かれている。考古学とは、映画において暴力の起源の探究として描かれざるを得ないのだろう。
ラストシーン。戦火に燃える街を眺める薮池のもとに、かつての上司から電話があり「お前、なにやったんだ?」と聞かれたのには答えず「今から戻ります」と言って電話を切る。
その前のシークエンスで、札束の入ったスーツケースを掲げて仲間に加わりたいと申し出る桐山を、銃を掲げた中曽根一派の残党の男たちが無視する。何が街で起きているかは明らかにならないが、政府を中心とする貨幣の価値を保証するはずの社会の秩序が崩壊したことは確かなのではないだろうか。冒頭、藪池の前で自殺する立て篭もり犯の「世界の秩序を回復せよ」というセリフの意味が想起される。果たして、「世界の秩序の回復」とは、「社会の秩序の崩壊」のことではなかったか。

・『回路』(2000)のこと

インターネットを介した『リング』(1998)のような映画を、ということから始まったというその黒沢清の映画は、確かに画面の中と外とで人が行き来することが恐怖を生み出す。『回路』(2000)は、見ると死んでしまう呪いのビデオがインターネット上に流通していく様を、観葉植物の販売事務所での職員の変死とその謎を追う同僚、「幽霊に会いたいですか」と呼びかけるサイトに偶然接続してしまった大学生の視点から追いかける群像劇である。

端的に言えば、それは画面を通じたあちらとこちらを彼岸と此岸の行き来に見立てた物語だ。溢れかえった死者の世界からインターネットを通じてこちら側に幽霊が流れ出す噂や、自殺の光景を映したものと思しき不気味な映像を見かけた者が死者の世界へ誘われる事件が示唆するように、当時まだ普及途中だった巷では得体のしれないインターネットという技術が死者と繋がる不気味なツールとしてホラーのギミックとして機能している。
画面の向こうとこちらの情報を等価に交換してしまう。その世界観を、10年後の論考から答え合わせしてみよう。港千尋の論考『擬似群衆の時代』(2010)には、「ピクチャー・プラネット」という概念が登場する。

建築物が映像装置と一体化する現状は、おそらく今日の建築の方向性と矛盾するものではないだろう。(…)
複雑な構造計算が可能な高速演算装置のおかげで、新しい建築はますます映像のような自由度をみち、私たちを驚かせる。そこでは二次元と三次元が相互に浸透し合い、ある場合には建物そのものを消し去り、流動する映像体としての構築物として存在する。(…)
仮にこれを「映像建築」と呼ぶならば、近い未来にはさらに驚くべきことが待っているだろう。現在は孤立している映像建築が相互に繋がることによって、遠く離れた建築同士が映像を交換したり、あるいは共有することが可能になる。そこには高速道路や自動車も含まれる。宇宙に視点をおけば、それはひとつの巨大映像装置すなわち「ピクチャープラネット」に見えるだろう。広場の群衆を照らすのは、手元の携帯と映像建築の眩しい光である。

「疑似群衆の時代」港千尋(『書物の変 グーグルベルグの時代』2010年、せりか書房)

これまでの作品の延長で考えてみるならば、『回路』で描かれるインターネットとは「間宮」や「カリスマ」既存の社会システムを、それを支える価値の物語を破壊するなにかだった。それによって世界は記憶喪失者同士の無秩序な暴力状態に変貌する。社会の秩序を忘れて、世界の秩序を回復する。それこそが、黒沢清による世紀末だったのかもしれない。
港の描く社会の現代(未来)像と照らし合わせると、『回路』におけるインターネットはある程度のところまで実際のインターネットと符合する。港が描く、映像装置と、複雑な建築の乱立によって二次元と三次元の境目は崩壊し、実物と情報とがどんどん等価にやりとりされるかのようになった社会が到来しつつあるか、分野によってはすでに到来している。
『回路』とは、インターネットがテーマの映画ではあるが、一方で黒沢清お得意の映画表現が徹底された映画、第6回で述べた「映画SF」の表現そのものでもある。そこでは、限られた時空間の中をどのように人が行き来するか徹底された動線の映画が繰り広げられており、手法としては映画内の現実は動線の映像として映画的に、映画内の心霊映像はいわゆるファウンドフッテージものの「呪いのビデオ」のようなリアルな荒さの映像が登場する。幽霊と生者とが混ざり合う恐怖の中でそれぞれが行き来するのは、この二つのリアリティの映像なのだ。生者と死者、現実と虚構、その行き来は表現の点で映画と呪いのビデオの行き来として描かれる。

2011年に当時、クリスティーズで史上最高額の430万ドルで落札されたことが話題になったアンドレアス・グルスキーの「ライン川」という写真がある。それはライン川の河川敷を、自然のあるがままの姿で写し出すために、撮影した写真からデジタル加工によって人間と建物とを全て消し去った写真だ。デジタル技術によって、人間を消し去り、自然を実現する。『回路』のラストで、インターネットの向こうにさらわれて人のいなくなった新宿の街路を走る若者たちの視界からはこの写真のことを少し想起させる。実際にはそういう未来が訪れなかったが、しかし、インターネット、というよりもむしろ全てが情報になる社会では、それまでの社会秩序が崩壊してすべてが滅びてしまうような子どもの妄想のような不安が1999年には確かに立ち込めていた。しかし、もちろん、ノストラダムスの予言は当たらず、そのような未来は来なかった。

***

実際にやってきた未来、全てが情報になる未来、というのは過度に言語化され、コミュニケーションを重視されるようになった未来ではないか。そこが、決して黒沢清の映画の世紀末像からは導き出せなかった21世紀ではないかということを思うのだ。
というのも、映画の話を私がするのは結局、言葉と身体の矛盾について考えるためであるということがだんだんとわかってきた。言葉のネットワークというか、キャットウォークがあらゆるところにはりめぐらされて、そこからこぼれ落ちることのないようにという設計ばかりがなされると、言葉にならない身体というものの居場所はなくなってしまう。「知らない映画」とか「ノイズ」とか「時間イメージ」とかで私が求めてきたものとはつまり、言葉と矛盾した状態で発露するノイズとしての身体のことである。
インターネットは、そしてAIは、さらに言葉が身体をしばる社会を強化するだろう。それが完成するまえに、身体の逃げ道をもう少し探してみよう、というのがきっとここで思考していることなのだと思う。


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