「3.11」 と わたし Vol.14 「荒らしてはおけない。」ということ
椏久里珈琲 市澤秀耕さん
震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前と今とこの先の10年。
今日の主人公は、椏久里珈琲代表、市澤 秀耕 (いちさわ しゅうこう) さん。
椏久里珈琲は震災前の飯舘村の憩いの場でした。
全村避難の影響で一度は閉店するも、福島市に店舗を移転し再開。
相変わらず人気のカフェとして親しまれています。
新たな地での営業再開で村の方々に伝えたかったメッセージと、
これから先の10年、夢見る「暮らし」。
まるで戦場のカフェ
震災のときは、自家焙煎珈琲・椏久里を始めて19年目だった。
借金をほぼ返し終え、3人の子供は学校教育を終えて社会人になっていた。
引き継いだ農地でブルーベリーの栽培を始め、椏久里とコラボしたちょっとかっこよい百姓ができそうな予感がしていた。
57歳のときである。
震災後、宅急便が動き始めたのを機に飯舘の店を再開した。
避難先を行ったり来たりする人などが立ち寄った。
興奮して体験をしゃべり、騒然として戦場にあるカフェのようだった。
「荒らしてはおけない。」
まる1か月後の4月11日、飯舘村を避難区域にすることが公にされた。
その日に、店を閉めることにした。その後のことは未定である。
少しゆっくり避難のことを決めようと思った。
農家の後継ぎとして育った身なので、
人生で初めて、清々とした前途白紙感を味わった。
震災や原発事故への思いとは別次元のことなのだが。
でも、それは一瞬のことだった。
避難区域になると、店舗移転のオファーや
営業再開の問い合わせなどがたくさん入り始めた。
背中を押されたり引っ張られたりして、
結局、5月には福島市に借店舗を決め、
急ぎ改装して7月に営業を再開した。
かくも急いだのは、周りに急かされたからばかりではない。
働かないと食えないからでもある。
急遽、村を離れて避難しなければならなくなった多くの村人が、私と同様に大きな不安と怒りの中にあった。
「大丈夫だよ。なんとか生きていけるよ。」というメッセージを、営業再開という形で発したかったという思いもあった。
椏久里は「よいコーヒーとよい空間でお客さまに感動を」「山村の環境を活かして自立した営みを」という思いをスタッフと共有してきた。
福島市の店もなんとか回りだした。
飯舘の農地や宅地の除染が済んだ。
自然減衰と相まって線量も下がってきた頃合いを見て、
ゆるりとブルーベリーの管理を再開させた。
私と同じような世代の飯舘の男たちが
「荒らしてはおけない。」と言うことに、強く共感する。
あれから10年、67歳になった。
目指したもの、目指すもの
目指した「自立した営み」とは、
国際情勢や国内の農政が変わることによって揺さぶられる農家経営を、なんとか「左右されにくい営み、暮らし方」に変えたいということだったのかもしれない。
それが、農政ではなく「原子力政策」に破壊されることになるとは。
露ほども思わなかったことである。
思わぬところに強烈な伏兵が潜んでいた。
さて、これから10年、どちらを目指して歩みを進めていくのか。
震災を機に、社会が変わった。
いや、私の社会を見る目が変わったのか。
ともかく、ステージが変化したように思うのだ。
さらにコロナ禍は、変化の方向や速度を変える働きをしているように思える。
10年後は77歳である。
「よいコーヒー」「愛される椏久里」をスタッフともに磨き続けよう。
そして、ブルーベリー栽培を取っ掛かりにした飯舘での農ある暮らしを夢見ている。
楽しみながら、やってくどー!
飯舘の旧店舗には、昨日ご紹介した村カフェ753さんが入り、こちらも村の人気店となっています。
関連リンク
椏久里珈琲
http://www.agricoffee.com
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?